2009年1月20日
By:松 村 昭 雄
1995年12月、ジェリコで和解に関する世界集会がロビン首相とアラファト議長の共催で開催される予定だった。私が出席した運営委員会は同年6月にジェリコで開催された。
昼食休憩時間の時、私達は死海を見に行った。死海はイスラエルとウエストバンクの間に位置する。地球上で一番低い場所で乾いた土地にあり、その水は大洋の8.6倍の塩分がある。人々が水に浮きながら本を読んでいるのを見るのは珍しいことだ。ツアーの途中、友人たちがイエスが悪魔に誘惑されたと言われる誘惑の山を指し示した。私達は昼食とツアーを楽しんだ後、会議の午後のセッションへと戻った。私がガザで午後9時にアラファト議長と会う予定をしていたので、私達は議題を終わらせるべく進め続けた。
議題を終わらせようとしている午後の会議の途中に、テルアビブのバスで自爆テロがあった旨を報告する緊急電話を受けた。25人以上の死亡者。過去何年もの間で最大の死亡数だった。その事故でイスラエルとガザの間の境界が閉鎖された。外交官であっても車が境界を越すことは一切許可されなかった。
私は直ちにパレスチナにある国連開発計画(UNDP)事務所の代表ワテ氏に会いに向かった。彼は外務省に連絡を取り、国連の車も境界を越えることが許されないということを確認した。できることは何も無く、私はイスラエルの文化相シュラマト・アロニ女史に確認しようと進んだ。私が彼女の助けを求めると、境界警備は外務省ではなく国防省の担当であると知らされた。状況の緊急性を知る彼女は、直ちに国防大臣に電話を入れて私が誰であるか、今夜のガザでのアラファト議長との会談がどんなに重要であるかについて説明をしてくれた。国防大臣は私が境界を越える特別許可を発行することに同意してくれた。
UNDP代表のワテ氏が、80kmの道のりを行く間に警察に止められないようにと、国連のマークのある車を私に使うようにと申し出てくれた。チェックポイントに到着して軍のオフィサーが国防大臣の許可したリストに私の名前を見つけた。渡る準備ができた時、次の停止を命じられた。私はイスラエル軍の車に乗り換えなければならなかった。ワテ氏の国連車でも境界を越すことは許されなかったからだ。イスラエル軍の車に乗り込みおよそ1キロメートルある境界を渡った。アラファト議長の送った警察官の待つガザの反対側に到着。私は彼の警察の車に乗り越えた。これで4台目。この後はアラファト議長の事務所へと直行した。
ついにアラファト議長に迎えられ、私は彼が車を送ってくれたことに深謝し、彼の事務所に着くまでに4台も乗り換えなければならなかった話を伝えた。彼の表情は驚きを隠せなかった。そして、さらに私はイスラエルの国防大臣とアロニ文化大臣が私達の会談の為に多大な努力をしてくれた事に大変感謝している旨をアラファト議長に伝えた。アラファト議長もこの事には感謝していた。先に進み、私は彼に二枚の写真を見せた。
最初はオックスフォード大学の教会の前で撮ったグループ写真。写真はとても大きく1メートルの長さがある。私はそれをいつも持って行く。この写真は多くの人の興味をひいたものである。アラファト議長は写真にある300人の参加者の顔を眺め、数多くの名高いリーダー諸氏をみて感銘していた。驚くことに、彼は私が何故議員と宗教指導者を共に組織したのかと、私のコンセプトを尋ねた。彼は精神的実際的に人類の問題を見る概念を多分十分に理解したようだった。次に、私はクレムリンでの写真を見せた。ユダヤ人のメンバーが休息日に当たる日の閉会式に出席している写真だ。彼は正統派ユダヤ教のメンバーも参加したのかと尋ね、私が「イエス!」と答えると彼の目が驚きで大きく見開いた。私は彼に、これがジェリコ会議の精神にもなりえるのだと話すと、彼は会議のパレスチナ人にとっての重要性と彼の協力を私に保証してくれた。私達の会談の終わりに、私は予定時間を大分過ぎて長くなっていたことに気付いた。私達は握手をし、彼の激しい評判にも関らず彼の手のとても柔らかいことを感じた。私が握手した多くの元首の中でも最も柔らかな手だった。その夜エルサレムに戻る途中、暗い空のとりわけ美しいことに気付いた。それはまるで手の中に流れ星をつかめそうな感じだった。
その日境界を渡るのに乗った4台の車を思い出し、何故国連車も外交官車も渡ることを許されなかったのに、政府の職も国連の職も持たぬ私が渡ることができたのかと考えていた。
何故かという答えははっきりしています。国が主に政府により動かされるように、車は主にガソリンで走ります。しかし、車が潤滑油無しにはきちんと動かないように、人と人との個人関係と信頼がなければならないのです。それが私がいつも指導者の方々に、会議には彼らの肩書きやランクでではなく個人としての資格で参加することを勧める理由なのです。そうすることで、組織や機関ではない個人個人が会議のビジョンを作り出せるのです。
一度抗争が始まると政府は対話を閉じてしまうことを、歴史が示しています。そして、概して人々は召集された戦争で戦わなかった場合の結果を恐れます。対話が止まり、誤解が育ち、恐れとなります。この時点では、残された機能は個人同士の信頼関係だけです。それが潤滑油です。ガソリンではありません。それが国の運命を定め、最悪の結果では戦争へ、となるのです。
オバマ大統領が帆を上げて和解の航海を始め、世界の私達みんなが彼の船出に参加しました。今日、大統領はアメリカは自由と変革を受け入れること、受け入れ続けるべきであることを私達に思い起こさせました。「ムスリム世界の為に、」オバマ氏は今日の就任式で言いました「我々は、互いの利益と互いの敬意を基に前進する新しい道を探します。」と。
変革の為そして平和の為のこの意志が、アメリカ合衆国の激務と統率する意欲の精神を統一するのです。拡大を示す感覚では無く、限界と責任と共に、彼は自信を持ってアメリカを世界のリーダーとして断言しています。多くの人の心を希望で満たしているオバマ大統領は、自由と信頼を個々の指導者達そしてその政府全体にも同様に訴えて、アメリカの車のガソリンと潤滑油になってくれるかもしれません。
オバマ大統領の自由と新しい希望に向けた順調な航海を私達は心から祈ります。
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(日本語訳:木村道子)
英文オリジナル:http://akiomatsumura.com/2009/01/america-sets-sail-crossing-the-border-toward-peace-and-hope.html
One Reply to “アメリカが出帆:平和と希望に向かって境界を渡る”
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