福島第一原発二号機が引き起こしかねない大惨事 太平洋と米国への影響や如何?

(翻訳:神学博士 川上直哉)

事故により破損した福島第一原子力発電所の第二号機格納容器内の放射能レベルは最大で530Sv/hにまで達した。これは2011年3月の事故によって三つのメルトダウンが起こって以来最大の数値であると、東京電力会部式会社(TEPCO)は語った。

530Sv/hとは、ごくわずかな時間の被ばくによって人が死亡するレベルである。この放射能の数値は、2011年3月に破損した三つの原子炉すべてを解体する困難の巨大さを示している。原子炉取り出しの方法を見出さなければならない日本政府とTEPCOは、まさに困難な現実を突き付けられた格好だ。

国立研究開発法人 放射線医学総合研究所(放医研)の公式見解によると、放射線を取り扱うどんな医療関係者も、これほどのレベルの放射能を取り扱うことについては、考えることもできないという。

TEPCOはまた、カメラの遠隔操作によって得られた映像を分析したところ、原子炉の第一格納容器の中にある圧力容器の下には、金属製の格子の中に2メートルの穴があった、とも報告した。

「放射能、3.11以来最大に」
2017年2月3日付 ジャパンタイムス


原子力の安全対策を専門とするタナベ フミヤ氏によると、この画像分析によって、廃炉作業の準備とその具体的作業は、当初考えていたよりもさらにずっと難しいものだと分かった、という。なお、タナベ氏は1979年に米国スリーマイル島で起こった原発事故を分析した経験を持っている。 
- "Radiation Level in Fukushima Reactor could kill within a minute", 「福島原発の原子炉内放射能は一分以内に人を殺傷するレベル」
2017年2月3日 朝日新聞英語版

損傷した福島第一原発二号機の格納容器内の放射能レベルは、専門家が信じていたよりも格段に高いものであったことが、今や、明らかとなりました。

二号機の危機を前に、私は一つの恐ろしい記憶をよみがえらせています。それは2011年3月の地震の後に福島第一原発四号機が引き起こしかねなかった大惨事です。四号機は、ヒロシマ型原爆の14000倍に相当する放射能をその内側に蔵していたのでした。

二号機の危険性は今、私たちにいくつもの問いを持って迫っています。

  • 次の大地震が起こる蓋然性はどれくらいなのか?
  • 原子炉建屋の耐震強度はどれくらいなのか?
  • 圧力容器の中にある放射性核物質がどこにあるか、どうやってわかるのか?
  • 二号機建屋が倒壊した場合、適切な避難距離とは何キロなのか?
  • 太平洋の生態系にはどんな損害が加えられているのか?
  • 福島第一原発から大量の強烈な汚染水が太平洋に流れ出ている。その影響を受ける北米西海岸に住む人々、とりわけ子どもたちに、どんな潜在的リスクが生じているのだろうか?

ここに、竹本修三博士(京都大学大学院教授・地球物理学)の協力を得られたことを感謝して記したいと思います。博士は私の疑問への答えを寄せてくださいました。以下、博士の見解を転載します。

松村昭雄

 

福島第一原発二号機による地球規模の大惨事の可能性

京都大学大学院教授 竹本修三

2016年7月28日、東京電力株式会社(TEPCOと略。この企業体が原子炉を取り扱っている公益事業体である)は、ミュオン宇宙線の透過を利用して(それはちょうどX線の利用に似ている)、福島第一原子力発電所第二号機原子炉の画像を公開した。圧力容器の下部に180トンから210トン相当の物質の影が映っていた。TEPCOの出した結論は以下のとおりである。「二号機の核燃料は、そのほとんどが、圧力容器の中に残されていると推定される。」

福島事故が解決に向かっている、とは、とても言えない状況である。二号機には、大量の核燃料が残されている。ここから生じる問題は、特別に重大なものとなる。第二号機の商用稼働は1974年7月に始まる。2011年3月11日の事故において、建物の破壊なしに、二号機は高温と高圧という過酷な環境の中で持ちこたえた。しかしながら、長い間使用した原子炉である。長期にわたる放射線照射によって、間違いなく圧力容器は劣化している。もし巨大な地震に見舞われたならば、二号機は壊れ、内部に残されていた核燃料とその他デブリが拡散してしまうだろう。その時、首都圏は居住することもできなくなる。2020年の東京五輪など、まったく問題にならない事態がそこに予想される。

 

冷却用プールに格納されている核燃料棒の数は次のとおりである。一号機=392本。二号機=615本。三号機=566本。通常であれば、電動ポンプによって冷却用の水が送り込まれ、これらの燃料棒は冷やされ続けている。もし、電力に滞りがあった場合はどうなるのか。あるいは、強烈な地震がこのプールを破壊した場合はどうなるのか。そうした場合、いったい何が起こるのか。そうしたことを考えるとき、私たちは不安に満たされるのである。

 

2016年11月22日に、地震があった。震源は福島県沖であり、マグニチュードは7.4であった。2016年12月28日に、地震があった。震源は茨木健北部であり、マグニチュードは6.3であった。これらはすべて、東北沿岸地域沖で起こった2011年の地震の衝撃を受けた地域である。この地域においてマグニチュード7クラスの地震がたびたび起こることを、私たちは予期しておかなければならない。つまり、震度6ないし7の地震によって福島第一原発が倒壊するという可能性はある。このことを無視することはできない。その中でも二号機に起こりうることこそ、最悪の恐怖である。その圧力容器の中には巨大な量の核燃料デブリが封じ込められているのだから。

 

2011年3月の事故の中で、急激な温度変化と圧力変化があったが、二号機の圧力容器はそれに耐えた。しかし、放射線照射を受け続けた結果の劣化ということをまじめに考えてみると、間もなく起こると予想される新たな大地震によって、二号機は深刻な打撃を蒙るかもしれないのである。… Continue reading

社会全体の利益を守るために: 原発関係者以外の声を繋ぎ、増幅させるため、 国際諮問会議を構築する

2016年11月30日

松村昭雄

(日本語訳:川上直哉 神学博士)

2016年11月23日の朝日新聞(英語版)に、以下のような社説が掲載されました。

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地球規模で考えてみれば、5年と6か月という年月の経過など、一瞬の時間にも過ぎない。

2016年11月22日、マグニチュード7.4の地震が日本の東北地方を襲った。これは2011年3月11日の東日本大震災の余震とみられている。この地震は、私たち「忘れっぽい」人類への警告となった。

今回特に、東京電力福島第二原発の使用済み燃料プールの冷却装置が一時停止したという事実が、多くの人々の心に警報となって響いた。実に、2011年3月の災害直後には、福島第一原発の冷却装置が機能しなくなり、使用済み核燃料が極めて危険な状態に陥ったのだ。その時、大規模な放射性物質拡散の危険性が高まり、人々は恐怖したのだった。

今ここで私たちは意識しなければならない――私たちは、もしかすると、あの特別な教訓をすでに忘れてしまっているのではないだろうか。

私たちは、すべての災害から謙虚に学ばねばならないはずだ。今や、個人であれ、団体であれ、社会のすべてを挙げて、実行可能な対策を、しっかりと確実に講じ続けなければならない。

つまるところ、それだけが次の災害への唯一の備えとなる。次の災害は、あるいは今日起こるかもしれないのだ。

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日本政府と東京都は2020年の東京オリンピック関連情報を大量に流し続けています。その狂騒の結果、私たちはある事実についてほとんど顧慮しなくなってしまいました。つまりたとえば「復旧がどのように進んでいるのか」とか「作業員がどんな困難に直面しているか」とか、あるいは「福島第一原発周辺でどれほどの地域が立ち入り不能となっているか」といった事実を、私たちはもう気にもしていないのです。確かに、表層的にだけ物事を見ている日本人や米国人にとっては、福島原発の問題はずいぶん前に解決済みで、今も「アンダーコントロール」なのでしょう。しかしもちろん、そんなことにはなっていません。福島原発の危機は多方面にわたって継続しており、人類と環境の安全性は脅かされ続けている、と、私は懸念しているのです。

もはや、メディアがこの危機にスポットライトを当てることはなくなってしまいました。ですから、敢えて以下の事実に意識を向け続けることが重要となっています:

  • 放射能が強すぎて、福島第一原発の1・2・3号機の内部には、誰も入ることができない。今後最低40年は、露出した核燃料を取り出すこともできないとされている。
  • 東京電力は400トンの冷却水を毎日投入することで、メルトダウンした三つの炉心を冷やしている。これとは別に、400トンの地下水が原子炉建屋に毎日流入している。加えて、汚染地域に広がる放射性物質が雨によって海へと流れ出てしまっている。
  • 植物プランクトン(藻類)が福島第一原発からの放射性物質を吸収している。それは動物プランクトンや幼虫の中に蓄積される。これらの微細な動物たちが、魚をはじめとする海の動物の主な食糧となる。そうして放射性物質は、北太平洋海流に乗って北米西岸に到着し、アラスカやチリへと広がっている。
  • 320億円の費用を投じ、深さ約30m・全長約1キロ半の「凍土壁」を地中に設置したが、当初の目的である汚染水の流入を食い止めることには成功していない。
  • 日本政府(経済産業省)によると、実効性のある除染作業を完遂するための費用は「年額数千億円以上」である。このような多額の経費について、日本政府が自らの予算から捻出しようとする気配はない。

 

福島第一原発事故からわかったことは、日本政府と東京電力は社会を守る意思がない、ということです。実に痛ましいことですが、日本の原子力関連の高名な科学者たちは、東京電力の代弁者となるか、あるいは沈黙してしまっています。具体的に一つの事例を申し上げます。事故発生後、現場で「メルトダウン」が起こっていたと分かっていたのですが、「メルトダウン」という言葉自体が意図的に封印されてしまいました。実にそのままの状態で、2011年5月までの2か月間が過ぎてしまったのです。この事実は、5年たった後に、東京電力が自ら認めて発表したことなのです。

国際原子力機関(IAEA)は、この問題にどのようにかかわってきたのでしょうか。その実態を受け入れることもまた、私にとっては難しいことでした。最初の段階で、IAEAは福島第一原発へ専門家を派遣しました。派遣された専門家は状況を整理し、その知見を日本政府と東京電力に提供しました。それなのになぜ、IAEAは、日本政府が事故現場から「半径20km圏」を強制避難区域と決定したとき、その決定に対して厳しい問題提起をしなかったのでしょうか。米国から発せられた勧告・声明などの四分の一は「半径80kmを避難区域とすべき」というものでした。そして同じ勧告・声明などの十分の一は、なんと「200kmを避難区域とすべき」としていました。それはつまり、東京を避難区域とする、というものでした。そしてその意見には、英国やフランスやドイツも賛成していたのです。なぜ、それをIAEAは無視したのでしょうか。

著者による日本語訳読者への追記:ヘレン・カルディコット博士は、以下のようにコメントを寄せてくださいました。「実は、ほとんどの政治家・財界人・工学者そして原子物理学者は、そもそも、必要な知識を持っていないのです。ここでいう必要な知識とは、放射線生物学であり、がん・先天性異常・遺伝病を放射能が誘発する仕組みについての知識のことです。放射線への感受性についていえば、子どもは大人の20倍であり、女児は男児の2倍であり、胎児はさらに高い、ということも、まったくわかっていない。こうした無知こそが、問題の根幹なのです。」

IAEAの使命は「原子力の平和利用促進」です。原子力(核エネルギー)の軍事利用化を抑制し、核兵器の拡散を抑制することが、IAEAの使命です。こうした 使命を考えれば当然、社会が安全に保たれることをこそ、IAEAはその第一の道義的責任としているはずです。ですから当然ながら、IAEA参加国政府や原子力産業界の立場を守ることは、その任務にならないはずなのです。

 

【世界の原発と地域安定性】

上記地図のリンク先で、原発および国をクリックしてください。
詳しい情報が確認できます。
ダブルクリックすると、拡大します。クリックしてドラッグしますと、動きます。

 

四海を鑑みますに、世界に広がる430の原発をテロリストが標的とする蓋然性は高まっていると判断せざるを得ません。政治的・経済的・環境問題的な見地に立って、政府と産業界は原子力をめぐる警備と安全性をめぐる議論を積み重ねるべきです。しかし、それはおざなりにされたままなのです。正確な情報が足りない、という問題があります。原子力をめぐる警備と安全性についての、独立した立場に立つ、専門家のネットワークが、今、求められています。故ハンス-ペーター・デュール博士(元 マックス・プランク研究所長)が、福島第一原発事故の数日後、私に次のように語っていたことを思い出します。「ひとたび原子力災害が発生した以上は、その災害を止めるための科学的解決法など、今後数十年にわたって出てこないだろう。できることはただ、被害を最小化することだけだ。そのためには、多様な分野の専門家から知恵を集め、原子力事故の全体像を見つめることが必要となる。」これが、彼の助言でした。

そして今ここに、「国際諮問会議(International Advisory Council = IAC)」を、NEAA(Nuclear Emergency Action Alliance)の下に設立することができましたことを、ご報告申し上げます。これは多くの方々からの支援の賜物です。このことに、私は大きな励ましを覚えています。現時点で、24人が13か国から参加してくださいました。多くの助力を賜り、実に多彩な分野の専門家に集まっていただくことができました。原子力工学、医学、環境の保全と権利、安全保障、生物学、社会運動、財界、そしてソーシャル・メディアといった各分野のトップエリートが、会議のメンバーになってくださったのです。この方々は、その専門分野のみならず公的にも高く評価され尊敬されている人々です。(ただし、このメンバーは全員、それぞれ個人の立場において、この国際諮問会議に参加していただきます。それぞれの専門的背景は、各位の履歴以上のものではないことを、ここに付記いたします。)

このIACの最初のメンバーを以下にご紹介します。ご理解を賜り、また関係各位にご紹介を賜れば、本当に幸いに存じます。

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私たちは、いつ・どこで・どのように原子力事故が起こるかを知りません。ただ、わかっておかなければならないことがあります。それは、政府と産業界はあらゆる努力を払って問題を社会から隠そうとする、という現実があるということです。

今日、私たちは、情報にアクセスすることができます。さらに私たちは、その情報を分析し解釈し伝達することもできるのです。効果的で独立したネットワークが設立され維持されるならば、現下求められている社会の利益を守ることも、可能となるでしょう。そのために、行動を起こさなければなりません。

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アメリカの新しいデジタルコルプス

2016年9月30日

松 村 昭 雄

 

米国の政治家がソーシャルメデイアの扱い方を覚え始めたのは、つい最近のことです。オバマ大統領とヒラリー・クリントン氏はコメデイショー「Between Two Ferns」に出演し、政策を宣伝して若者たちの間で話題となりました。ドナルド・トランプ氏はツイ―トでの得点を伸ばしていいます。ただし、「ポピュラーになること」だけでは、私たちの世界のデジタルな領域で十分な力を持つことには至りません。(もちろん、オバマ大統領は、サイバーセキュリティなどのデジタルなイノベーションを通して米国を発展させました。「米国情報相(US Digital Service)」はその例でしょう。オバマ大統領は、人工知能をめぐる対話が展開する方向へと力添えをしています。最近のguest-edited WIRED magazine を参照ください。)

 

現代世界におけるデジタル・ネットワークは、パワフルです。外交政策の現場でもその中枢でも、サイバー攻撃はすさまじく、あっという間に侵入してきます(例えば、米国の選挙についていえば、まだ一カ月以上先に予定されている段階で、もうすでにハッキングされたようです)。更に言えば、インターネットの繋がりによって、様々な思想が、地理的に離れた空間を行き来するようになりました。以前は遮断されていたり、あるいは知られてすらいなかった空間へも、カーンアカデミー(2006年にサルマン・カーンにより設立された教育系非営利団体。YouTubeで短時間の講座を配信し、運営サイトにて練習問題や教育者向けのツールを無料提供している)を通して教育用の動画が配信されています。白人系の差別主義者からは一連のスレッドとなった議論が流通し、ISIL募集者からは人々を魅了する募集広告が配信されています。

 

ISILのオンライン募集作戦に対抗するため、米国政府は行動を開始しました。デジタル部門を設立して分析を進め、四面楚歌にあるISILが今仕掛けてくる情報発信に様々な形で対応し始めました。FBI、NSA、そしてサイバーコマンドなどが、秘密裏に活動を続けています。こうしたことはつまり、米国が公的に新しい一歩を踏み出して、インターネットの世界における新しい局面に取り組み、戦っていることを示す事例となっています。

 

以上のようなことを受けて、ファラ・パンデイス前合衆国議員は、若い人々に極端なグループが遡及してゆくことを止めるところまで、私たちが大きく意識を変えなければならない、と、次のように語っています

 

「おれたち」と「連中」という議論の枠組みがある。その枠組みの中で、ISIL、アルカイダ、ボコ・ハラム、その他、といった組織は、オンラインであれオフラインであれ、非常に重厚でスマートなマーケティングをしている。そのマーケティングがターゲットにしているのはデジタル・ネイティブの人々であり、アイデンティティの危機を共有している人々で、Sheikh Googleからの呼びかけに答えて先へ進もうとする人々だ。この人々を守らねばならない。そのためには、地球の向こう側まで届く確かな声を活用して、同志を募るネットワークを機能させ、地球を縦横につなぐ組織とを構築しなければならないのだ。サウジアラビヤやカタールでは、宗教的な教育とグローバルに展開している公的圧力がある。そこに真剣に注目し、イスラムの多様性について(他の宗教については語るまでもない)不寛容になるようにと組織的に洗脳するこの動きを止めなければならない。これが、鍵だ。活発なミレニアル世代(1980年代半ばから2003年の間に生まれた世代)を動員することが重要だ。そのために、その世代の声を拾い上げなければならない。その仲間同士の思いが邂逅することで化学変化を引き起こし、新しい方途を拓かなければならない。

 

アメリカ人は長い間、理念をめぐる闘いに、そのソフトパワーを動員してきました。国の草創期にはベンジャミン・フランクリンがフランスへの使者として派遣されました。ディジー・ガレスピー、ベニー・グッドマン、その他ユニークなアメリカのジャズ音楽が、中東へ、南ヨーロッパへ、そして冷戦期のソ連へと、動員されました。その冷戦の時期に、ケネデイ―大統領は「ピースコルプス(平和部隊:米国政府が運営するボランティア部隊で、隊員は開発途上国へ派遣される)」を創設しました。彼は外国での開発事業がアメリカの若者を結集させる力を持っていることを知っていたからです。

 

私自身、交換留学制度のお世話になり、ピースコルプスをめぐって、重要な経験を重ねてきました。

 

たとえば、30年前のことです。ミシガン選出の国会議員フィリップ・ルペ氏が私と私の家族をワシントンの彼の家に招待してくれました。奥様のローレイ・ミラー・ルぺ夫人はレーガン大統領の下、ピースコルプスのデイレクターでした。夕食を食べながらルぺ夫人は、第二次世界大戦後のアメリカの海外政策(私は非常に成功したと思っていたのですが)について、私に尋ねました。私はまず2つのことを話しました。つまり、マーシャルプランと日本への占領政策についてです。そしてそれに続けて、3つ目に「ピースコルプスです」と言った時、彼女は不意を突かれた様子で、私に「あら、ちょっとした外交官みたいね」と言ったのです。でも私は、「いえ、私は以前からピースコルプスに加わりたかったのです。でも私はアメリカ人でないため、できなかったのでした。でもその代わり、私は国際学生協会の積極的メンバーになったのです」と答えたのです。

 

また私は、1964年に多くの東南アジアの国々を訪問するという素晴らしい機会に恵まれ、ベトナム戦争が拡大する前にサイゴン大学を含む大学生寮に泊まることができました。多くの若者、未来のべトナムのリーダー達は、アメリカの政策とベトナム戦争に反対でしたが、彼らはピースコルプスの仲間達との素晴らしい友情を育んでいました。

 

ピースコルプスの使命は「世界平和と友情を推進する事」です。そのために、「3つの目標」が設定されています。それは「訓練されたボランティアによってその要請に応え、関係各国の人々を助けること。」「支援される人々の側が米国人について、よい理解を得るようにすること。」「米国人の側が他国の人々について、よい理解を得るようにすること」の三つでした。

 

米国の人々は様々な世代から構成されるピースコルプスのボランティアを充分に評価していたわけではありませんでした。私は長い間、国際関係の仕事に深く関係してきました。私はそうした働きを、自動車に例えて、次のように説明しています。「政府間を繋げることが、国際関係という車を動かすガソリンの供給に例えられる。そして、私的で個人的なつながりを作り出すことが、エンジンを滑らかにし、すべてを円滑に進めることが出来るようになる」(詳しくは「アメリカは出帆する:平和と希望を目指し、境界を越えて」を参照ください)。

 

イーロン・マスク(テスラ・モターズCEO)やグーグルといった人や組織が、今日の自動車をリノベーションしています。まさにそのように、次の大統領は、政府間、国民間、その他の領域間でのデジタルなつながりをリノベーションするために行動を起こさなければなりません。私は、次期大統領に、「ユース・コルプス」を提案したいと思います。まず最初の100日以内に30名の若者をホワイトハウスに招待し「デジタルに基礎づけられた国づくり」を開始するのです。若い米国人の声をネットワークするのです。そうして、次々と新しく湧き上がるIT技術の先を行き、「ピース・コルプス」「アメリコー(米国海外青年協力隊)」そして新しく設立された米国情報省の蓄積に学びつつ、米国の若者たちを再び結集させるのです。

 

オバマ大統領は彼の2期目の一般教書演説において、「私たちの国は、ある一つの理念に基づいて建設された最初の国家である。その理念とは、我々一人一人が、自分自身の天命を形にできる一人一人だ、というものだ。」と言いました。大統領は次のことを強調したかったのです。つまり、「このアメリカを、国家として発展させるように、私たちは招かれている」と。「このアメリカの理念(アメリカン・ドリーム)を持続することは、決して容易なことではなかった。それぞれの世代は、この理念のために、犠牲と苦闘を強いられ、そして、新しい時代の要求に応えてきたのだ」とオバマ大統領は語ったのです。

 

明らかにこの時代、理念を伝える伝送路はインターネットです。ですから、インターネットをきちんと理解する方向へと進むことが、私たちに、自分自身の天命を具現化するためのへ力を与えることとなるのです。… Continue reading

オバマ大統領の広島訪問: 「ヒロシマ・ナガサキの惨劇を生き抜いた全世界の人々に、ノーベル平和賞を」再録

松村昭雄

2016年3月22日、私は核問題緊急同盟(NEAA)の立ち上げを発表しました。その同じ日、私たちは、ブリュッセルはテロ攻撃の悲劇を目撃したのです。そして人々は、全世界31か国に430機の原子力発電所(核発電所)がある、ということを、真剣に考え始めたのでした

 

フクシマの事故から、私は一つのことを学びました。つまり、たった一つの原子力発電所(核発電所)が事故を起こした、それだけで、人間の生命に想像もつかないような影響が、数世紀にもわたって、もたらされるのだ、ということを、学んだのです。この一つの事故が、多くの人生をずたずたにし、言い尽くせない痛みをもたらしたのです。もう少し事態が悪化していたら、地球環境はこの先24000年にわたり、甚大な被害を受けるところでした。もしそうなった場合、私たちは、その結果もたらされる将来世代の損害の大きさを見積もることすら、できなかったのではないかと思います。人間の生命への影響を考えたとき、核兵器による放射能と、そして原子力事故(核の事故)による放射能と、両者の間には、ほとんど何の違いもない。このことを、私は、フクシマの事故を通して知りました。それは重要な発見でした。

核兵器について、そして、原子力発電所(核発電所)の経済的必要性について、相反する二つの意見が、それぞれの説得力をもって、展開されています。当然のことですが、日本は、核兵器と原子力発電(核発電)の両方について、その技術が持つ負の側面を目の当たりにしてきた国でした。オバマ大統領が広島を訪れましたが、そのとき彼は「ヒロシマとナガサキの未来」を描き出しました。オバマ大統領が描き出したその未来とは、「核戦争の夜明けとして知られるもの」ではなく、「私たち自身の道徳的覚醒の始まりとして知られるもの」でした。

 

被爆者、世界中の若者たち、そして日本の人々に、このメッセージは感謝をもって受け止められたことでしょう。他方で、このオバマ大統領の旅は、ある人々にとっては、議論の的となりました。その議論とは、次のようなものです。「オバマ大統領は被爆者に謝罪するだろうか。彼はそうすべきだろうか。」(実際、彼は謝罪しなかったのですが。)

 

どうでしょうか。オバマ大統領は、何を訴えるために、このスピーチをしたのでしょうか。このスピーチの核心はきっと、「私たちは深く考え続け、そして議論し続けなければならない」と訴えた点に、あったのではないでしょうか。〔オバマ大統領のスピーチは、以下のように語っていました。〕

 

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71年前。ある晴れた、雲一つない朝のこと。死が、空から降りかかってきました。そして、世界は変わってしまった。閃光、そして炎の壁。それらが都市を破壊しました。そのとき、人類は自分自身を破壊する手段を手に入れた、ということが、はっきりしたのでした。

 

どうして私たちは、この地に、ここ、広島に、来たのでしょう。そう遠くない昔、恐るべき恐怖が解き放たれた。そのことを沈思黙考するために、私たちはここに来たのです。私たちは、追悼するために、ここに来ました。10万を超える日本人、女性や子どもたち。数千に及ぶ朝鮮半島の人々。10数名の米軍捕虜。こうした人々が犠牲となりました。その犠牲者を覚えて追悼するために、私たちは、ここに来たのです。この犠牲者の魂が私たちに語り掛けています。自分たちの内側を見つめてごらんと、呼びかけています。私たちは何者であるのか。私たちはどんな存在になれるのか。犠牲者の魂が、私たちに問いかけているのです。

 

なんとしばしば、物質的な進歩や、社会的な革新が、私たちの目をふさぎ、この真理を見えなくしてしまっていることでしょう。何かより高い目的のために、と言って、暴力を正当化する。そんなやり方を、なんとたやすく、私たちは覚えてしまうことでしょう。偉大な宗教はすべて、愛と平和と正義への道を約束しています。自分たちは殺しのライセンスを持っている、などと信じるような人々によって、どんな宗教も広められたりはしていません。国々は立ち上がり、人々に語り掛け、犠牲と協調の雰囲気の内に人々を結束させてしまいます。そして注目に値する偉業を達成しようとする。しかしその際、本当にいつも、他者を抑圧し人間扱いしない類の物語が、そこに語られてきました。

 

私たちは海を渡り空の雲を飛び越えて、交流することができるようになりました。病気を癒し、宇宙を理解できるようになりました。これらはすべて、科学の力によるものです。しかし、こうした発見そのものが、いつもいつも、効率よく人を殺す機械へと転用されてきたのでした。

 

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昨日、私たちは、国防のために命を犠牲にした人々を覚える合衆国の記念日を過ごしました。その犠牲の一つ一つが、私たちみんなの記憶の中に、より深く深くしみこむようにと、私たちはその犠牲となった命を記念したのでした。広島で、オバマ大統領は次のように言いました。「いつか、ヒバクシャの声が、もはや肉声としては私たちの耳に響かなくなる、そんな日が来ることでしょう。しかし、1945年8月6日の朝の記憶は、決して風化することはありません。その記憶が、私たちが自己満足と戦うための力になります。道徳的な想像力が、この記憶を糧に昂進するのです。そうして私たちは、変わってゆくことができるのです。」

 

この言葉の光に照らされながら、私はもう一度、2011年1月に書いた呼びかけをここに記したいと思います。

 

「タイム誌は“あなた”と大きく銘打って、それを“2006年の人”としました。そこに込められたメッセージの、なんと力強かったことでしょう。もし、“原爆の惨禍を生き延びたすべての人”を一つのグループと見て、そのグループにノーベル平和賞が授与されたなら、と想像します。そのとき、きっと、その人々のメッセージ力は新しい高みに到達することでしょう。そして純然たる個人や機関ではなくグループが受賞できるという前例となって、ノーベル平和賞の選考委員会は新しい境地を拓くことになるでしょう。ヒロシマ・ナガサキの惨劇を生き抜いた世界中の人々は、平和のために力強く前進してきました。しかしそのメッセージは風化しつつあります。世界中の良心の最前列へと投げ込んでくださった平和のメッセージを顕彰するために、これ以上の方法があるでしょうか?」

 

私たちは、ここまで来てしまった私たちの議論をいったん離れなければなりません。私たちの子孫は、数千発の核兵器と、数百機の原子力発電所(核発電所)と、そして数10万トンに及ぶ核物質とを、世界中に遺された中を生きてゆきます。このことを真面目に考えるために、私たちは、時間を割かなければなりません。

 

日本語訳 : 川上直哉 神学博士… Continue reading

「エマージェンシー・アクション・アライアンス(EAA)」結成―核災害後に踏み出す第一歩

松村昭雄

福島第一原子力発電所の事故から5年の節目にあたって、私が執筆しました記事『フクシマの教訓―将来への新たな懸念』は、幸いなことに友人や読者の皆さまからたくさんの好意的なご感想をいただきました。

その中には、依然として多くの問題が未解決のままである、という現実に対するいら立ちも多々見られました。毎日400トンの汚染水が海に流れ込み、放射性廃棄物の処分場は決まらず、原子炉で溶けた燃料の取り出しは、少なくとも40年間、科学的解決策は望めません。そして、世界中に散らばる原子力発電所へのテロ攻撃に対する懸念と、そうした攻撃が起きた場合に対応するための、なんらかの仕組みや戦略づくり―事後対策や介入策―の必要性にも、読者から理解が寄せられました。前述の私の記事は、国際組織の「社会的責任を果たすための医師団(PSR)」「核戦争防止国際医師会議(IPPNW)」 (PSR/IPPNW Switzerland) によって、英語版と仏語版が掲載されました。 (IPPNW は1985年にノーベル平和賞受賞)

私たちは、何百基とある原発のうち、たったひとつの不運、あるいは過ちが、何世紀とはいかないまでも、何十年にもわたって人と環境に甚大な損失をもたらすことを思い知りました。核攻撃や「汚い爆弾」による被害などは、あまりに大きすぎて予測もできません。しかし、代替エネルギーの開発・導入にかかるコストをはるかに上回ることは確かです。(将来を見すえると、どうやって、半減期24,000年のプルトニウムを含む使用済み燃料を安全に保管し、その場所を後世の人々にわかるようにするのか、さらなる懸念が生じます)

現在、31カ国に約430基ある原発と、16カ国で建設中の66基が、危機に陥る可能性はあると私は考えています。私たちは、国家主体による核攻撃については危険性を認識してきましたが、今や、原発への直接攻撃に加えて、人為的過誤や地震、津波、火山噴火といった自然災害による脅威についても理解しなくてはなりません。私が特に心配しているのは、不安定な国々にある原発へのテロ攻撃です。戦争や対立の増加に歯止めをかけられないのが現実なら、原発へのテロ攻撃の可能性を低く見なしたり、政府や原子力産業が安全対策を強化している、と当てこんだりするのは現実的と言えないでしょう。

1945年、アルベルト・アインシュタインの言葉です。「原子力の開放は、私たちのものの考え方以外のすべてを変えてしまった… この問題の解決策は、人の心の中にある。それを知っていたら、私は時計職人になっていたにちがいない」

私たちは、核災害に責任を持って対処する心構えで行動を起こすべきです。

防止と事後措置
核災害の防止は、政府、「国際原子力機関(IAEA)」、多数の国際組織、オピニオンリーダーたちが第一に取り組む(そして必ず実行する)べき最優先事項です。今週、オバマ大統領がワシントンで「第4回核安全保障サミット」を開きます。しかし、このような働きかけにもかかわらず、各国の首脳たちの核安全保障 (PDF) への関心は薄れています。大規模な核災害は起きていないから大丈夫、という感覚で安心していることが理由のひとつとして考えられます。

しかし、大災害が実際に起きたらどうなるのでしょうか? 防止することがひとつの策です。そして、もう一つの策としては、災害が起きてしまった場合に、損害とパニックを軽減することです。フクシマから私が学んだのは、事後の行動を事前に予測しておかなければならない、ということです。構造物の応急修理、何千、あるいは何百万人の人々の避難、精神的ショックへの最善の対処法は? また、できれば目をふさぎたいその他の措置については? 問われるのは、多分野からの専門家の英知を集めて、総合分析を行えるかどうかです。完全に予測し、解決できる問題ではありません。が、起きてしまってからの状況に備え、効果を発揮する仕組みづくりができるはずです。そこには、次世代の核危機への備えも含まれます。

ここで、「エマージェンシー・アクション・アライアンス(EAA)」についてご紹介したいと思います。EAAは、特に三つの必要性から、私が共同設立した組織です。(1)核災害後、国際諮問機関の多様な専門知識を通じて、技術的・政治的・医学的分野から第一段階措置を割り出し、助言する (2)十分な調査研究を経た、効果的な医療プロトコルを作成し、放射能被ばくの影響の軽減に役立てる (3)ソーシャルネットワークを使い、正確で質の高い情報と分析を伝える

私は、スティーヴン・エヴァンスという共同設立者に恵まれました。スティーヴンと私は、2年前に、福島の原発事故の派生問題ついて議論する会議で知り合いました。スティーヴンは特に、すでに放射能の被害にあっている数十万人の人たちへの対応について重点的に考える手助けをしてくれました。被害者は、チェルノブイリや福島の原発事故はもちろん、冷戦期の核実験による被ばく者にまで及びます。

私たちは、EAAのさらなる向上に尽力するとともに、皆さまからのご意見やご感想をお待ち申し上げております。

「エマージェンシー・アクション・アライアンス(EAA)」について

背景

専門のアナリストの推測によると、世界中にある原発の一か所、あるいはそれ以上がテロリストの標的になる可能性が増している。特に、政情不安で、セキュリティが低いパキスタンといった国の原発は狙われやすい。

同時に、放射能の拡散やパニックの広がりを意図して、「スーツケース型核爆弾」をウォール・ストリートのような重要地区で爆発させる、といった脅威も存在する。最近、放射性物質の紛失(米国、イラク、旧ソ連圏の国々の病院や他の施設から)が報告されているため、こうした懸念はいっそう強まる。放射性物質がテロリストの手に落ちる危険性がある。

危機に陥った場合、政府は、きわめて困難な問題の解決と、パニックの勃発を防ぐ、という圧力のせめぎ合いに直面する。ふたつの必要性がぶつかり合えば、国民との信頼関係にみぞを残し、両者の行動にずれが生じる。

綱領

必須要件 脅威の高まりと、政府の利害対立をふまえ、核災害後の対策として不十分な3点を特定した。ひとつめは、起こり得る危機を見極め、行政が被害を即座に減少させるための創造的な解決策―応急修理や緊急避難など―を考案することである。多方面から幅広い知見を集めた独立チームが状況を評価することで、もっとも緊急性の高い問題がわかり、解決への助けとなる。

ふたつめは、有用かつ価値ある介入の仕組みを作り、国民が行使できるようにすることである。これは、状況が完全にコントロールされ、危険はないと「保証」されている場合でも必要だ。放射能の放出に対処するため、十分に調査され、綿密に定義された医療プロトコルの必要性は高い。現在、実際に被ばくから人々を守るのに実行可能な医療プロトコルはない。必要とされるのは、核の大惨事を前にしても行動を開始し、様々な被ばく線量に対応できる先発集団である。

三つめは、ソーシャルメディアネットワークとソーシャルメディア戦略の効果的な利用である。EAAはこれらを用いて、正確で質の高い情報と分析、作成中のプロトコルを広める。

行動計画 まず、 EAAは100名の著明なオピニオンリーダーと技術者から成る国際諮問委員会を招集する。構成員は、被害地域に対し、避難、安全性、その他の危機対応について、信頼性の高い様々な見地を提供できる者とする。次に、EAAは入念な調査研究に基づいた効果的な医療プロトコルを体系化し、被ばくに対応する。そして、必要に応じて即時運用できる状態にしておく。最後に、EAAはあらゆるソーシャルメディアネットワークを駆使して、情報、分析、プロトコルを広めていく。

戦略 EAAは、民間・公的セクター、多様な分野、様々な国々からの第一人者によるおよそ100名を結集した団体である。代表者であり、共同設立者の松村昭雄は、過去に、世界のオピニオンリーダーたちによる会合を成功させた実績を持ち、今回もまたEAAで同じ仕事に取り組む。もうひとりの共同設立者であるスティーヴン・エヴァンスは、論文審査のある医学専門誌をリサーチし、医療の専門知識をまとめ、被ばくへの対応を担う。また、ソーシャルメディアに熟達し、EAAが対象とする広範な層とのコミュニケーションをはかる。

 

 

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フクシマの教訓――将来への新たな懸念

松村昭雄

2011年3月11日に、福島第一原子力発電所で起きた史上最悪の事故から5年目をむかえる今週は、世界中の人々が哀悼の意を捧げます。

事故に対するとらえ方は数多くあり、人と環境の安全を左右しつづけます。帰宅の見込みがたたない避難者はいまだ178,000人(そのうち99,750人が福島県民) です。そして400トンの汚染水が毎日海に流れ込んでいます。たびたび襲ってくる集中豪雨で事故現場の放射性物質が海へと流されるのです。814,782トンの汚染水は、1,000基のタンクに貯蔵されていますが、その数は毎月増えています。現場では毎日7,000人の作業員が危険な事故処理に取り組んでいます。こうした人々の献身的な働きで、これまでに多くの問題が解決されてきた一方で、数々の問題にも行き詰っています。 高線量のため、人が近づくことのできない原子炉1、2、3号機。少なくとも40年間、科学的解決策は期待できず、今後、崩壊することも考慮しておかなくてはなりません――40年で新たな大地震が起きる可能性はゼロではないのです。

福島第一原発の事故発生後、即座にさまざまな分野からの意見や助言が寄せられました。核科学者、医師、軍関係者、地震学者、生物学者、海洋学者、火山学者、ジャーナリスト、宗教指導者、国会議員、学生、草の根組織、世論指導者たちがいっせいに参入して、問題の全体像が水平に浮かび上がり、別のとらえ方が導き出されました。従事者がいかに専門分野に長けていようと、ひとつの分野だけでは限りがあります。彼らからのメッセージは、当時マスコミに広がっていた情報の混乱に切り込み、日本の人々への助けにもなりました。

福島第一原発事故から5年目に際し、この事故の初期段階を今いちど振り返って、痛ましいできごとから得た教訓をもとに、私自身の見解を述べたいと思います。

地震発生から2週間、国も専門家も一様に、技術的解決策を模索しました。打つ手がほとんどないまま、パニックは増していきました。炉心溶融は起きたのか? 適切な避難距離は? システム障害が多発する中、どうやって原子炉の冷却システムを維持するのか? ベントは機能しているのか? チェルノブイリより悪い事態なのか? 自衛隊のヘリコプターは3、4号機の燃料プールに放水できるのか?

当時の指導者や国民を貫いたパニックを的確に言い表すのは不可能でしょう。日本政府と原発の事業者である東京電力は、過酷事故への備えが十分ではありませんでした。コミュニケーション不足と対応の遅れで、国民は政府と東電を責め、政府と東電はたがいに責任を押しつけ合いました。

混乱とパニックは日本だけにとどまらず、米国政府にも及びました。原子炉6基の損傷を評価するにあたって、日米政府間には相当な隔たりがありました。特に、事故当時たまたま定期点検中だった4号機について判断が分かれました。安全性と損傷に関するいろいろな言及が入り混じって、パニックを助長しました。日本政府は、避難指示は20キロ圏が妥当とし、一方で米国政府は、80キロ圏の避難指示を自国民に出しました。英、仏、独、その他の国々は、それぞれの国民に向けて、東京から出て200キロ以上離れるよう勧告しました。

当初から、少数の専門家は、この事故が現在の科学的解決策の域を超えた危機であること、なにか策を打ち出すには情報が不十分であることに気づいていました。初期の混乱状態にあった頃、私のよき友人であった故ハンス=ピーター・ドゥール博士――独のマックス・プランク天体物理学研究所元所長――から電話がありました。日本の首相に、福島の事態は日本政府が発表したものよりずっと深刻であることを伝えたほうがいい、と彼は言いました。そのとき、政府は炉心溶融を認知していませんでしたが、ハンス=ピーターは、科学知識の限界に私たちが追い込まれていることを知っていたのです。彼は、日本は解決策を見つけるために、一流の核科学者と建築工学技術者から成る独立評価チームを招いてはどうか、と提案しました。私は、その緊急メッセージを首相官邸と党首たちに送りました。

問題の範囲はどれくらいなのか? 事故から一年経っても、私たちは量的な感覚をつかめずにいました。感覚をつかみ始めたきっかけは、使用済み燃料の数がわかったときでした。東電はこの情報を明らかにしていませんでした。そこで私は、村田光平大使にお願いして、内部に通じた人たちへ個別に確認してもらいました。大使からの情報によると、福島第一原発の使用済み燃料の合計本数は、圧力容器内のものを除いて、11,421本ということでした。私は次に、ロバート・アルバレス――米エネルギー省長官上級政策アドバイザー、国家安全保障と環境担当副次官補を歴任――に、11,421本の使用済み燃料が与え得る影響について説明を求めました。

2012年4月3日、ボブ(Robert の愛称)はその数字が意味するところを解説してくれました。結果は驚愕するものでした。事故現場のセシウム‐137の量はチェルノブイリ原発事故の85倍だったのです。

核爆弾のように「ドカーン」と轟くわけではありませんが、放射性物質の量がこれほどとなれば、莫大な破壊的潜在力があります。人々はショックを受けました。記事はたちまち百万人以上に読まれ、インターネットを通じてどんどん広がっていきました。海外の科学者たちが、4号機に潜んでいた世界的大災害の可能性を警告しなかったら、日本政府が1,535本の使用済み燃料の取り出し作業を優先することはなかったでしょう。それは、広島に投下された原子爆弾の14,000倍という放射能を含んでいました。

さまざまな分野の専門家からの意見がなかったら、重要な情報は国民に知らされることなく、政府と電力会社内にとどまっていたことでしょう。

しかし、この情報を得ても、技術面にばかり注目したままでは、危機の大局と原因は見えてきません。国会事故調査委員長だった黒川清氏は、異なった、しかし明確な見方をしています。

2011年3月11日に起きた地震と津波は、世界中を揺るがす規模の自然災害であった。大災害が引き金となってはいるが、その後の福島第一原発で起きた事故は、自然災害と見なすことはできない。きわめて人為的な災害――予測と防止は可能であり、すべきであった――である。もっと効果的な対応をしていれば、事故の影響を軽減できたかもしれない。

こんな事故が日本で、優れた工学と技術への世界的評価を誇りとする国で、どうして起きたのか? 国会事故調査委員会は、日本国民、ならびに国際社会は、この問いへの十分かつ率直、そして透明性のある答えを得る権利があると考えている。認めるべきは――非常につらいことではあるが――これが「メイド・イン・ジャパン」の災害だということだ。

その根本的な原因は、日本文化に深く根づく慣習に見いだせる。つまり、私たちの反射的な従順さ、権威に対して疑問を呈することへの躊躇、「プログラム通り続行」への献身、集団主義、島国根性である。

私の場合、自分たちが新たな脅威とともに生きていること、また何十年間も脅威とともに生きてきた、ということをフクシマに教えられました。原発事故は、何世紀にもわたって、想像を超えるような影響を人間の生活に与え得ることがわかりました。今回の事故は、原発によって生活を破壊された人々に重大な害をもたらしました。もし、このまま事態が悪化したら、24,000年間の環境への害は将来世代にどんな影響を及ぼすのでしょうか?

仮に、原発が建設されたとき、国民がこれらのリスクに気づき、受け入れていたとしたらどうでしょう。残念ながら、日本ではそうなりませんでした。原発を建設する側も、リスクを受け入れていませんでした。建設当時や事故当時も。今現在でさえも。

東京電力は、事故から5年経ってようやく、「炉心溶融」という言葉の使用が2ヶ月遅かったことを認めました。エネルギー・コンサルティング会社のフェアウィンズ・アソシエーツのアーニー・ガンダーセンと、『世界の原子力産業現状報告』を書いたマイケル・シュナイダーは、蒸気が大量発生していた時点で炉心溶融が起きていることは明白だったと指摘しています。しかし、東電の否定が、パニックへの対処に影響を与えました。ヘレン・カルディコット博士が提言したように、日本政府は女性や子供たちをできるだけ早く、遠くに避難させるべきだったのです。ヘレンは私たちのブログのために、放射能汚染下における日本への14の提言を書き送ってくれました。東電と政府当局は、たくさんの専門家からの警告を無視し、警鐘に耳を貸そうとしませんでした。

5年間考察してきて、フクシマが私に示したのは、原発への新たな懸念でした。 そして重要な知見を得ました。人命に関わるリスクという点で、核爆弾による放射能と原発事故によるそれとで、ほとんど差異はないことを私たちは理解していませんでした。核攻撃の危険性に対する身構えはありましたし、今では、原発における人的ミスや、地震、津波、火山噴火といった自然災害の脅威も理解しています。でも、原発への攻撃についてはどうでしょうか? とりわけ心配なのは、パキスタンのように不安定な国々にある原発へのテロ攻撃です。

世界中にたくさんある原子力発電所のひとつ、あるいはそれ以上をテロリストが標的にする可能性は高く、しかも増しています。原発のみならず、狙われやすい他の施設も脅威に対して脆弱なままです。さらに、そうした脅威に関する情報は、政府間でなかなか共有されることがありません。米国は、同盟国日本に対して、ある特定の脅威への警告をしたくてもできなかったのです! スーツケースサイズの小型核爆弾がタイムズスクエアで爆発する、というような脅威には、専門家も大統領も悩まされつづけています。今後こうしたリスクが現実になる可能性を考えると、民主主義社会であろうが、権威主義社会であろうが、国民がなにも知らされていないのは驚くべきことです。フクシマで目にしたように、リスクが手遅れになるまで隠されつづけ、そのリスクとともに生きることを求められていた、と気づかされたときの痛みはあまりに大きいものです。

専門家たちは、リスクの解決策を明確にして検証し、助言を与えるでしょうし、またすべきです。中国やインド、アラブ首長国連邦、ベトナム、インドネシアといった国々で、原発が次々に建設され、計画されている中、その責任は増しています。しかし、国民との開かれた対話があってこそ、攻撃や事故を防ぎ、いったんそれらが起きてしまった場合に適切な対応ができるのです。ソーシャルメディアは、そういうときに多分野からの専門家と社会とをつなぐかけ橋として力を発揮してくれます。まさに、核災害防止のために尽力する組織の活動を補う強力なツールになるでしょう。情報を管理できないのは、どんな権力者にとっても受け入れがたいことです。でも、フクシマやエボラの流行のようなケースに、トップダウン型の伝達経路では限界があることを見せつけられました。

政治家は、社会をリードする仕事の中で、いくつもの相反する課題や利害に直面します。原子力エネルギーは、例えば気候変動という課題にうまく合致するかように見えます。しかし、問題解決にともなうリスクが、国民を含むすべての利害関係者にはっきりと提示されていないならば、正確で公正な評価がなされていると見なすことはできません。フクシマは、無炭素エネルギー、安全、健全な環境、人間の安全保障、将来世代のための保全といった、人々のニーズが交差するときに直面する課題について、幅広く議論する契機となりました。これらの問題は、この先何世紀もかけて、私たちの人間社会を定義づけていくでしょう。ですから、あらゆる事実を提示して、議論する機会を逃してはなりません。

 

別記

英国の優れた核物理学者ブライアン・フラワーズ卿は指摘しました。もし、第二次世界大戦前の欧州に原子力発電所が建てられていたら、今ごろ欧州の大部分は居住不能になっていただろう。 戦争と破壊は、これらの施設を攻撃対象にしただろうから、と。

 

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二万年を永らえる毒性―核の安全とはるかな未来への道のり

松村昭雄

ウクライナのチェルノブイリ原子力発電所で史上最悪の事故が起きてから25年が経ったが、原発事故によって、最終的にどんな健康被害がもたらされるのかは、いまだはっきりしていない。この情報の空白を埋めていくには、研究プログラムを活性化していく必要がある。すなわち、あらたな原発事故への準備態勢を強化することと、低線量被ばくの長期的影響について理解を高めることである。(New York Times Editorial, May 9)

チェルノブイリ原子力発電所の爆発事故による火災で、放射能は旧ソ連西部や欧州へと広がりました。放出された放射性物質は、広島に投下された原子爆弾の400倍ということです。事故の調査と処理にあたった派遣団を取り仕切ったのは、私の古い友人で、旧ソ連最高の原子核科学者エフゲニ―・ベリホフ博士でした。

1988年に開催されたオックスフォード・グローバル・フォーラムで、ベリコフ博士は、自身が直接たずさわった調査について述べ、事故の規模がいかほどであったかを参加者に印象づけました。同フォーラムでは、米国の高名な科学者カール・セーガンが、米ソ両国に対し、核兵器の削減を訴え、インドとパキスタンの参加者に対しては、なぜ印パはひそかに核兵器を製造するのか、と踏み込んだ質問をしました。印パの外交官はともに、核兵器計画について否定し、エネルギー生産という平和目的のために原子力発電所を建設しているという公式説明を押し通しました。

それから10年後の1998年5月11日、インド政府は、ラージャスターン州ポカランで核実験を3回行ったと表明しました。同月28日、今度はパキスタン政府が5回の核実験実施を公表しました。印パの行為で、アフガニスタン―パキスタン―インド一帯の地政学的均衡はぐらつきました。これが、国際的に重要な意味を持つことは、今日の紛争や勢力争いを見れば、明らかです。しかし、この一帯も、物騒な地域のほんの一部分でしかありません。隣国のイランには、世界が警戒の目を光らせています。イランの核開発計画は、中東諸国の長期にわたる暴力闘争に揺さぶりをかけかねません。総じて、核問題と、それに関連するテロリスト問題は、国際安全保障の議題において最重要事項です。先週、オサマ・ビン・ラディンが死亡し、米国人は喝采しましたが、ビン・ラディンの死で、アルカイダとその他のテロリストたちのネットワークが終結したわけでないことはわかっています。核拡散を軸に展開する勢力の均衡状態は、まだ続くのです。巨大かつ多様な結果を招くおそれのある核問題。その発端は、常に原子力発電所の建設です。

2007年1月、私は友人のハンス=ピーター・ドゥール博士とクラウス・ビゲルト氏に会うため、ミュンヘンへと旅立ちました。ハンス=ピーターは、世界で最も尊敬されている原子力物理学者のひとりで、ドイツの一流研究機関である、マックス・プランク天体物理学研究所の元所長、クラウスは、 非核未来賞の理事長です。私たちは、ハンス=ピーターが猛反対する原子力エネルギーについて何時間も話し合いました。私は、自分が知る著明な環境科学者の見解を述べました。その科学者は、二酸化炭素排出量の少ない原子力エネルギーを支持している人でした。ハンス=ピーターはとても熱心で寛大な人物でしたから、原子力エネルギーが抱える無数の技術的問題を真剣に解説してくれました。ところが、その方面に知識の乏しかった私は、彼の言わんとすることがつかめなかったのです。原発は、人為ミスと自然災害に備えて何重にも安全策がとられている、という前提に基づいて、私はその環境科学者の意見と地球を擁護したのです。私は、ハンス=ピーターが伝えようとしていた原発の技術的な問題点と災害の規模を完全には理解していなかったのです

3月11日、マグニチュード9.0の地震と、それによる津波で、福島第一原子力発電所が被害を受けました。原子炉の冷却システムが不能となって、放射性物質が漏えいし、原発から半径30 km圏内が避難区域となりました。 日本では、まだ事故処理に苦闘しています。この日をもって、原子力発電所の安全神話はことごとく崩れ去りました。

菅首相は、中部電力に対して、浜岡原子力発電所の停止を要請しました。今後30年以内に、80%の確率で中部地方に大規模な地震が発生し得る、という地質学者の予測に基づいた判断でした。

一連のニュースや出来事から、私はミュンヘンでのハンス=ピーターとの会話を思い出しました。彼は、原発に断固反対していました。それは、原発が下記のリスクを生むからです。

  1. 多数の国家が核兵器を保有(増加中)
  2. 核拡散によるテロ攻撃や汚い爆弾の使用(可能性あり)
  3. 手違いや自然災害が原因の放射能災害(すでに発生)
  4. 2万年間に及ぶ使用済み核燃料の未知の影響(進行中)

これら4例と、世界中にある438基の原発とをかんがみたとき、災害は必ず起きるという気がしてなりません。

私たちは、エネルギー生産の促進と経済成長の維持のため、原子力発電所を造りつづけています。米国では、104基の原発が全電力の20%を、日本では、54基が30%を供給しています。フランスに至っては、80%を原発がまかなっています。経済成長を減速させることなく、短期間のうちに、原子力エネルギーを新しいクリーンなエネルギー源へと置き換えるのは、不可能かもしれません。でも、もしたくさんの国々が自国のエネルギー需要を満たすために原発を造れば、フクシマを超える大災害を招く危険を冒すことになるのです。

何百基という原発の中で、ひとつでも間違いが起これば、とてつもない人命と環境の損失を引き起こし、しかもそれが長年に及ぶのだと、私たちは学びました。核戦争や汚い爆弾がもたらす損失は計り知れないものでしょう。 自然の力の前にテクノロジーは無力であることを忘れてはなりません。核のリスク、テロリズム、絶え間ない紛争が互いに関わり合えば、代替エネルギーの開発より高くつくかもしれません。

将来に目を向けると、もっと大きな心配があります。半減期が2万4千年というプルトニウムを含む使用済み核燃料をどうやって安全に保管するのか、その保管場所をどうやって私たちの子孫に指し示すのか、という問題です。放射性廃棄物を長期間保管するピラミッドのような建造物はどんなものなら残していけるのでしょうか?

もし、石器時代の人々が出した有害物質が、現代の私たちの生活にまだ影響するのだとしたら、西暦22,000年の人々は、地球のあちこちに埋まっている放射性廃棄物で大変な状況に陥るのではないでしょうか。 「エネルギーが足りなかったんです」などという弁明は通用しないでしょう。

これは、政治指導者が早急に決断してしまうような問題ではなく、子孫のために、全人類が慎重に考えていかなければならない問題なのです。

5月16日―正確を期するため、語句、タイトルを改訂しました

 

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チュニジア ノーベル平和賞―政治的価値としての対話

難民危機によって、国の地政学的・文化的政策とグローバル経済政策は作り変えられ、欧州連合(EU)の基本原理は試練を受けることになるでしょう。シリアの危機は難民問題を悪化させているだけでなく、シリアや他の中東諸国で革命の引き金となる可能性もあります。このモザイク様に組み合わさった複雑な問題についてともに考えていきましょう。フランスは、シリア、北アフリカ、中東と歴史的なつながりがあり、概して地域の問題に精通しています。私は、親しい友人であるバイロン・ジャニス** とマリア・クーパー・ジャニス夫妻から「ブリッジ・イニシアティブ・インターナショナル(Bridge Initiative International )」の創設者Patrice Barratを紹介されるという幸運に恵まれました。

Patriceは長年にわたって、文化とイデオロギーの壁を越えて架け橋を築くというコンセプトのもと、草の根レベルで活動を行ってきました。近年は「アラブの春」の源であるチュニジアに在住し、自らの使命を果たしながら、今年ノーベル平和賞を受賞した「チュニジア国民対話カルテット」の活動を目の当たりにしてきました。その高潔な働きをぜひご紹介したいと思います。

**バイロン・ジャニスは世界的に有名なコンサート・ピアニスト。グローバル・フォーラムのテーマソング『One World 』を作曲。(作詞はアカデミー賞を4回受賞したサミー・カーン。歌はジョン・デンバー。)妻マリアの父はハリウッド俳優の故ゲイリー・クーパー

— 松村昭雄

チュニジア ノーベル平和賞

政治的価値としての対話

 

一見あまりに素朴な光景であった。彼らはすぐそこの壇上にいた。1週間前の2015年10月9日、オスロからの知らせ以来はじめて勢揃いした。2013年夏の団結がノーベル平和賞を受賞したという知らせだった。

パリのアラブ世界研究所。私たちの目の前でカルテットはその成り立ちと将来構想について、そしてチュニジア国民の運命について語った。カルテットにとっては、チュニジアの人々こそが真の受賞者であるという気持ちだった。それは偽りではない。事実カルテットを主導するのは市民社会であり、今日まで標榜し続けてきた国民対話は真摯な取り組みによって本物だと認められている。

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なぜ私にこんな話ができるのかというと、2012年以来ほぼ毎月チュニジアで、NGO「ブリッジ・イニシアティブ・インターナショナル」として若者と政府との間に調停プロセスを築く活動をしていたからだ。また、私はジャーナリストとして1980年代からチュニジアを「報道」してきた。1984年に国家を揺るがせ、革命にまで発展しかかった「パン暴動」も取り扱った。

革命は起こる。ただし、それは23年後のベンアリ政権時代であった。1987年、ベン・アリはハビブ・ブルギバを打倒し政権に就いた。ブルギバは、フランス植民地からの開放を果たした「国民の父」として、さらにアラブ世界では稀な女性に権利を与えた近代主義者として広く知られている。2011年1月14日当日のほぼ間際まで、ベン・アリの腐敗した独裁政権は西側諸国(米と欧州)から支援を受けていた。西側は、ベン・アリを経済面で、また対イスラム過激派への戦略面で協力者と見なしていた。しかし、チュニジアの「アラブの春」が若者を中心として各地に波及し、その波は地政学をしのいだ。そして2011年、「ジャスミン革命」が勝利する。

ところが2年後の2013年、チュニジアは内戦の危機にあった。二つの世俗派政党「エタカトル」と「共和国のための会議」が連合(通称「トロイカ体制」)、引き続き統治を行っていたのは「穏健派」のイスラム系政党「エンナハダ」であったが、過激派サラフィー主義者たちへの対応が甘かった。チュニジアの若者たち数百人がイラクやシリア、リビアで過激派グループに加わるのをむざむざと許してしまったのだ。野党指導者の暗殺はピークに達し、経済と社会は炎上の危機に陥っていた。そんなときである。マヌーバ大学とジェンドゥーバ大学の学部長二人が受け身の態度を捨て去る決断をした。まず、チュニジア労働総連盟(UGTT)の代表に声をかけた。UGTTの代表フセン・アバシは、続いて彼の好敵手に呼びかけた。産業商業手工業連合(UTICA)の女性会長ウイデッド・ブシャマウイである。国家のために協調することで合意した二人は人権擁護連盟の代表アブデッサタル・ベンムーサを、さらに全国弁護士会の会長ファデル・マフードを引き入れた。

このようにして4団体―カルテット―は計画を策定した。優先すべきは憲法制定だった。政治的空白状態を避けるため早急に新しい選挙過程を開始し、長々と話し合われてきた新共和国憲法の採択を急がなければならない。独裁体制への回帰を阻止し、非宗教的国民国家を確かなものにするための憲法が必要だった。カルテットは、エンナハダを含めた全政党に、政界のエリートたちによるものではなく、市民社会主導型の計画を承認させようと固く決意していた。

教訓

ノーベル賞受賞から学んだこと。それは、力強い市民社会における知的かつ包括的な対話の実現が平和賞を獲得した、ということだ。

2015年10月15日、パリで祝賀会が催された日の朝のことだ。著明なアルジェリア人作家カメル・ダウドのコラムを読んで純粋な喜びを感じた。「『チュニジア人』とは国民を指しているのではなく、私たちみんなのことだ」。仏の元文化大臣ジャック・ラングの言葉に酔いしれた。「これは象徴だ。象徴の光は伝播する。アラブ世界の至るところに。全世界の至るところに」。祝賀会がまさに開かれたのを目にして満足感に浸った。というのもムハーディン・シェルビブが祝賀会の開催を思いついたのは当日のわずか4日前のことだったからだ。シェルビブは熱心なチュニジア人活動家として高い評価を得ている。60歳代で普段はパリの9区にある小さなホテルのフロント係として働く。

なぜチュニジアでは改革が成功したのか?なぜチュニジアでは違う結果となったのか?リビアやイラク、シリアのような大量殺りくもなく、エジプトのような厳しい抑圧もなしに。他のアラブ(あるいは非アラブ)諸国と違うのはなぜか?

憲法体制と市民社会の関係を担当する大臣カメル・ジェンドゥビが見解を述べている。対話は数世紀におよぶチュニジア文化の伝統であり、対話があったからこそ植民地時代に宗主国フランスから持ち込まれた労働組合主義は成功した。対話には真剣に取り組む。醜い独裁体制や内戦の危機から国政を救ってくれたのは対話である。

信じていただけるだろうか。2014年秋の大統領・議会選挙の前日のできごとを。スイスを拠点とするNGO「人道的対話センター (Center for Humanitarian Dialogue) 」で働く友人オメヤ・セディクは23党すべての政党を説得して行動憲章と相互尊重の協約に連署させた。しかも、それだけではない。党首たちはすすんで ビデオクリップに出演し、署名に満足していると言ったのだ。

警告

カメル・ジェンドゥビも今回の受賞者たちも、自分たちの仕事が警告つきであることを認めている。

チュニジアの若者は高失業率に直面している。無職の大学院卒業者の若者のための組合まである。社会福祉はない。チュニジアの成功のもとである対話に若者が参加する余地はない。若者がいなければ2011年の革命はなかっただろう。だれもが認める事実だ。カルテットが結成されることもなく、ベン・アリが相変わらず政権に就いていたかもしれない。若者たちの勇敢な行動はきちんとした場で称えられるべきだ。チュニジアの春が希望の光として輝き続けていると確信させてくれるのは若者たちの声である。若者たちの声と権力の座に就く者たちとが積極的に関わらなければ繁栄は実現しないだろう。

チュニジア政府が平和賞受賞を刺激剤として若者との対話へと発展させるか、あるいは程なくして路上で新たな怒りが爆発するか、どちらだろうか。

Patrice Barrat

 「ブリッジ・イニシアティブ・インターナショナル(Bridge Initiative International)」 の創設者ならびに事務局長

 

(日本語訳 野村初美)… Continue reading

難民問題と各国の責任

 

松村昭雄

国連総会の開幕スピーチでパン・ギムン(藩基文)事務総長が、増え続けるシリアからの難民や移民の窮状に注目し、欧州の首脳と国民が直面する政治的・人道的問題とその責任について訴えました。2011年以降にシリアから逃れてきた人々は400万人以上に達し、イラクやアフガニスタン、その他の危険な国々からの難民を合わせると、数はさらに膨らみます。

ギリシャ、イタリア、ハンガリー、アルバニア、マケドニア、モンテネグロ、セルビア、オーストリア、スロバキア、チェコ共和国、ブルガリア、ルーマニア、トルコ、ポーランド、ドイツといった南・東欧諸国には、難民や移民らの受け入れ国として大きな負担がのしかかります。紛争、革命、激変と無縁ではなかった国々です。

9月、ニューヨーク・タイムズ紙が社説で東欧に対し、過去を思い出すよう促しています。

第二次世界大戦以来のヨーロッパにおける最大の難民危機は、ドイツやその他の国々が一時的に国境を閉鎖するなど深刻さを増している。にもかかわらず、EU加盟国による難民受け入れの分担義務化についてEU内相間で合意に至らなかった。

この惨憺たる反応が一層恥ずべきものであるのは、難民受け入れの割り当てに対し、断固反対したのがいくつかの東欧諸国だということだ。つい最近、西側諸国を受け入れたことで大いに利益を享受し、恩恵をうけた国々である。

反対しているのは中欧・東欧諸国だけではないし、そうした反発はわからなくもない。25年前、ソ連のくびきから解かれた国々のほとんどは未だ周辺国と比べて貧しく、被害者意識が消えていない。遠い国からの人々が自国に大量に入ってきたことなどなければ、中東の危機を身近に感じることもほとんどない。

しかし、こうした事情は関係ない。欧州の首脳たちが目の前にしている問いは移民を受け入れるかどうかではなく、難民が最初にたどりつくギリシャやイタリア、ハンガリーといった国々が大量流入でとてつもなく大きな負担を負っている状況にどう対処するかである。

 

「もしも」ではなく「どうやって」という問いなのですから、国民を動かして了見を変えさせるために国家はどうすればよいのか、わたしたちは自問しなくてはなりません。南欧や東欧には意思決定に政治や経済が入り込む余地がありません。今のような状況に、この余地を広げる何かを考えてみる価値はあるでしょう。

dead boy

勇気ある行動へのインスピレーションにはたくさんの形がありますが、伝統的で有用な二つの源、それは宗教と突然の劇的な出来事です。宗教指導者は、旧態とした問題に新たな取り組みを提示し、やっかいな政治的ジレンマに斬新な視点をもたらしてくれます。

ここで私自身の思い出を振り返ってみます。1989年11月、ベルリンの壁が崩壊して二ヶ月後のことでした。ゴルバチョフ大統領がクレムリン宮殿でモスクワ・グローバル・フォーラムを主催しました。そこで数百人に及ぶ宗教的・政治的指導者が一堂に会して、国境を越えた解決困難な脅威に対し共に取り組んだのです。

言うまでもありませんが、1990年1月には鉄のカーテンが突如消滅し、フォーラムに参加していた首脳たちは活気づいていました。新しい希望の精神によって、クレムリン宮殿内での閉会式でユダヤ教の安息日は異例の超越を成し、東欧と中東出身の政治・宗教指導者たちが人権と開放路線の重要性を強調しました。

その中には、シリアで有力者ながら独立した立場をとる人物、イスラム教最高権威シェイフ・アフメド・クフタロ師がいました。クフタロ師は、大変革に際して和解が必要であると強く訴えていました。(クフタロ師はのちの2001年5月、ローマ法王ヨハネ・パウロ二世のウマイヤド・モスク訪問に付き添うという歴史的偉業を成しました)。つまり、世界情勢が激動するときにシリアの宗教指導者が東欧への支援を申し出たのです。

25年後、東欧諸国の多くがEUに加盟してきました。新加盟国は政治紛争を経て仲間入りをし、それぞれが連合に貢献しています。経済的・政治的争いが続いていても、EUのひとつの強みは、アフリカやバルカン諸国の人道危機に立ち向かうため一丸となって行動できるところにあります。

先週、フランシスコ法王が米連邦議会で演説し、アメリカ大陸とヨーロッパの両方で高まり続ける難民危機について述べました。

難民や移民を数字でとらえないでください。人として顔を見て、話を聞いてください。彼らの状況にできる限りの対応をしてください…常に人道的で公正に友愛をもって応えてください。最近よくある誘惑―やっかいなことはことごとく切り捨てたいーは避けなくてはなりません。

9月中旬は政治的に華々しく盛り上がる時期です。ニュー・ヨークで各国の首脳らが握手を交わし、平和を口にします。一方で秋が始まる時期でもあります。東欧は寒さが増していきます。子供の命が、他の多くの人の命が危険にさらされています。いやが応でも、ヨーロッパの首脳らと国民は迅速かつ有効な対策で、目の前にいる数百万という新来者たちの生活を自国に受け入れる責任があります。統合は容易でありませんが、EUが進めているプロセスです。新メンバーを迎え入れるときがやってきたのです。

 

 

(日本語訳 野村初美)

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対立の新たな形とモスクワ・グローバル・フォーラムから25年を経て

17人の命を奪い、数百万人規模の反テロ行進を巻き起こしたパリの襲撃事件。人々の生活、政治、経済システムを混乱に陥らせる新しいタイプの争いが兆しています。世界中の多くの人々が宗教、文化、生活様式の著しい違いがきっかけで、自分たちの生活が他と相いれず、イデオロギーの厳守とは反目しあうのだと感じました。恐怖、悲観、不信の言葉が世界各地で日々交わされています。国際政治の場も同様です。

25年前の1月、モスクワで幕を開いたグローバル・フォーラムは、不信と不和が続いた暗い時代に終止符を打ち、寛容と楽観の新しい時代の始まりを象徴していました。そのたった2ヶ月前には、ベルリンの壁が崩壊し、ソ連と米国は冷戦後の協調の道を模索していました。ソ連の開放路線を指揮したゴルバチョフ大統領は、一千人以上の宗教・政治指導者たちをクレムリンに迎え、そこで数日間にわたり、喫緊の国際問題について対話がなされました。今日とは大いに異なり、指導者たちは対話の道を閉ざすのではなく、新たな話し合いでつき進む前向きな方法を探っていました。

人々は文化や政治の分裂を超え、信頼し、交流することを選びました。グローバル・フォーラムでは、世界中から一千人以上の宗教・政治指導者たちが参集し、対等な立場で、また個人として、全人類が直面する難問について意見を交わしました。ゴルバチョフ大統領の開会宣言には参加者全員が共鳴し、その中には次に記す人物の姿もありました。:

  • ハビエル・ペレス=デ=クエヤル国連事務総長
  • グロ・ハーレム・ブルントラント元ノルウェー首相
  • クレイボーン・ペル米国上院議員
  • アルバート・ゴア米国上院議員
  • アフマド・クフタロ シリア最高イスラム法官
  • イマニュエル・ジャコボヴィッツ 英国ユダヤ教チーフ・ラビ
  • エリ・ウィーゼル博士 ノーベル平和賞作家
  • カール・セーガン博士
  • セオドア・ヘスバーグ師

話し合いの内容と語調に変化が生じました。地域協力や軍備縮小、環境問題へと話題が移っていったのです。基調演説の中でゴルバチョフ大統領は、グリーン・クロス・インターナショナルの理念を紹介し、環境保全上の利点から核実験禁止を支持しました。

最も重要なのは、人々が世界のために、よりよく、より楽観的なビジョンを実現させようとリスクを厭わず取り組んでいたことです。ゴルバチョフ大統領は、ソ連が路線変更するためにはリスクを負わざるを得ないことを承知していました。ペレストロイカの推進で、宗教を禁忌とする無神論の共産主義国家を超克し、信条も政治も様々な人たちをクレムリンに集めて大規模な会議の主催を敢行したのです。ところがそこへ緊急党議が開かれることになり、金曜日の午後2時に予定されていたグローバル・フォーラムの閉会式と重なるという事態が起きました。わたしは、閉会式の中止はやむなしと聞かされました。

舞台裏で、ゴルバチョフ大統領のキーアドバイザー、ベリホフ博士とやりとりした後、譲歩は可能であると大統領を説得することに成功しました。つまり、ソ連政府は党議、閉会式とも同日に行うことができるのだと。ただ、閉会式はどうしても時間を繰り下げねばなりませんでした。わたしが参加者たちにその朗報を伝えると、たちまち大勢のユダヤ人参加者に取り囲まれました。みんなひどく苛立っていました。「だが昭雄」彼らは言いました。「閉会式を金曜日の日没後に変更するとは。安息日のわれわれは出席できないではないか! それではわれわれを閉会式から締め出したことになる」これは特殊な状況であること、そしてわたしたちに続行させるため、共産党が政治的妥協を行ったことは極めて明白でした。そこでユダヤの友たちは、この状況を改めて解釈し直し、ミニヤン(礼拝定足数)を結成して共通の目標に向け、行動することを祈りました。その夜、参加者全員の出席でフォーラムは成功裏に終わりました。

もっと大きくすばらしいものを目指して従来の障壁を乗り越えたこの小さな奇跡は、グローバル・フォーラムの精神と、人々の新しい10年と国際政治の新しい時代のスタートである楽観主義とを具現していました。安息日の間、ミニヤンのみがユダヤ人参加者の閉会式出席を認めることができました。しかし、ミニヤンの各メンバーは自分で出席するかどうかを決めなければならず、出席を願って祈りを捧げました。

現在、わたしが非常に懸念しているのは、政治的にも宗教的にもイデオロギーを異にする集団で構成された過激派組織「イスラム国(ISIS)」の勢力拡大です。ソーシャルメディアを駆使してあちこちの国から若い戦闘員を効率よく募っており、狙うのは石油資源に恵まれた中東の国々、そしてアフリカ、パキスタン、アフガニスタン、中国といった国の不安定な地域です。これは、国家対非国家集団という新しい形の戦争です。とりわけ、核兵器と原子力発電所を保有するパキスタンは、ISISの標的として特に気がかりな国です。経済的必要性と原発数百基がテロリストの標的となり得るリスクとの境目はどこなのでしょうか?

悪しき組織網に対して大規模に対応できる準備態勢は整っていません。必要なのは、モスクワのグローバル・フォーラム同様、リスクを負ってでもより尊いものを求める人間たち、歴史的な障壁を堅固にするのではなく、それを超越する道を探し、最終的にはわたしたちの暮らしを導く団体や機関の改革、再形成に思い切って取り組める人間たちです。

以上に通底する言説と、これからわたしたちが追求して明らかにしていく事象について、テユ・コール氏が『ザ・ニュー・ヨーカー』に寄稿しています。氏は、パリの襲撃事件に対する西側諸国の即時的反応に疑問を投げかけています [English]。

今日のフランスは悲しみに暮れている。この先何週間も悲しみは続くだろう。わたしたちもフランスとともに嘆き悲しむ。嘆き悲しむべきである。しかし、「わたしたち」側からの暴力が弱まることなく続いているのもまた事実である。来月の今時分にはおそらく、パキスタンなどでさらに多くの「兵役年齢に達した若者たち」や、若くもなく男性でもないたくさんの人々が米国の無人攻撃機の犠牲になっているのだろう。これまでの事例から判断すると、犠牲者の多くは罪のない人々だ。彼らの死は、異端審問によって焚刑に処せられたメノッキオの死と同じくらい議論の余地なく当然のこととして見なされるのだろう。われわれライターたちはこうした殺戮にペンを折られるなどとは考えない。だが、論なし、死者への悼みなしの攻撃は、パリの襲撃事件とまったく同じだ。われわれの集団的自由への明白かつ現在の危険である。

このブログを通じて、指導者たちにいかにして障壁を乗り越えさせるか、いかなる要因と状況が信頼を育むのか、さらに21世紀の政治・宗教におけるリーダーシップについて議論していきたいと思います。

 

〈日本語訳 野村初美〉

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