汚染水を廃棄したい日本の、最悪の事態を恐れる漁師たち

福島第一原発の原子力災害によって生じた汚染水については、専門家がこれまで公表していたよりも放射能が強いものでした。それで、それを安全なものとして処理すると請け負ってきた政府の立場に対する疑問の声が上がっています。

By Motoko Rich and Makiko Inoue

Dec. 23, 2019『ニューヨークタイムズ』

(翻訳 神学博士 川上直哉)

2011年3月に北日本を襲った激烈な地震と津波は、福島県の沿岸都市に住む漁師ニイツマ・タツオさんから多くを奪いました。

津波はニイツマさんの漁船を破壊し、その家を粉砕しました。そして、実に恐ろしいことに、ニイツマさんにとって何より大切な娘さんの命を奪ったのでした。

その大災害から9年近くたった今、77歳になったニイツマさんは、その生業全体を失う危機にさらされています。津波によって破壊された原子力発電プラントから出る汚染水を、日本政府が海洋に放出しようとしているからです。

安倍晋三首相とその内閣、そして東京電力株式会社(チェルノブイリ以来最悪の原発事故へと至った三つのメルトダウンの現場となった福島第一原子力発電所の管理運営責任主体)は、100万トンに及ぶ汚染水をどうするか、決定しなければならない立場にあります。その汚染水は、原発が設置されていた場所に建設されている1000基に及ぶ巨大タンクに貯蔵されているのです。

去る月曜日(2019年12月23日)、日本の経済産業大臣は、その汚染水を段階的に太平洋に放出することを提案しました。大臣によると、海への放出は「安定的に希釈させ攪拌する」ようにコントロールする、というのです。「タンクの中に汚染水を保管し続ける方法」や「地中深くに注入する方法」を、同大臣は選択肢として排除したのでした。これを受けて、安倍内閣が最終決定をすることになります。

汚染水が発生するメカニズムは以下の通りです。まず、溶けた核燃料があります。それはあまりにも温度が高く、また放射能が強すぎるために、取り出すことができません。それで、その核燃料が収まっている原子炉を冷やすために、水が注入され、そして汚染水が生まれるのです。何年もの間、TEPCOという略称で知られている当該の電力会社は「処理された水は海洋に放出しても安全である」と言っていました。汚染水は強力なろ過装置によってそのほとんどの放射性物質を取り除くことができるというのです。

しかし、専門家が公表していたものよりも、実際の放射能は強いものでした。政府当局によると、処理された汚染水は再び処理され、そして放出に足る安全性を確保することになるというのです。

政府がどんな保証をしようと、汚染水が海へと排出された場合、ニイツマさんのような漁師が数百人単位で漁業をほぼ完全に破壊されることになるでしょう。消費者はすでに福島の魚について心配を募らせているのです。汚染水を海洋投棄すれば、人々の恐怖ははるかに深刻化することでしょう。

「そんなことをすれば、漁業という産業は殺され、漁船の命運は尽きてしまう」とニイツマさんは言います。「魚はもう、売れなくなる」と。


翌年夏のオリンピック期間中に野球の会場を提供するのが福島県です。そして、汚染水タンクが建てられている土地がいっぱいになってきています。そうしたことから、汚染水処理の議論は緊迫の度合いを強めているのです。

The Fukushima Daiichi Power Plant.Credit…Ko Sasaki for The New York Times

昨年まで、TEPCOは次のように示唆していました――「汚染水のほぼすべてについて、ただ一つだけの放射性物質を除いて、すでに放射性物質は取り除かれ、日本政府の示す安全基準を満たしている。残りのただ一つの放射性物質とはトリチウムであり、それは水素の同位体で会って、専門家によればそれは人間の健康に比較的低いリスクがあるだけのものだ」と。

しかしそのTEPCOが、昨年夏、「汚染水のおよそ五分の一だけが、十分に処理されたに過ぎない」と認めたのです。

先月、経済産業大臣は、福島の汚染水について、記者と外交官にブリーフィングを行いました。それによると、汚染水の75パーセントについては、いまだなお、トリチウム以外の放射性物質を含んでいるとのことです。そして、その汚染状況は、人体に影響がある水準として政府が想定しているレベルを超えるものである、とのことでした。

専門家の説明によると、最初の数年の間に原子炉に流入した水について、TEPCOが除染装置のフィルターを十分な回数で交換しなかったのだそうです。そのTEPCOによると、再度ろ過の作業をして、大部分の放射性核種を除去する処理を行い、汚染水をきれいにして太平洋に放出するそうです。

Fish being prepared for screening for radioactivity at a lab inside a fish market in Iwaki.

魚はいわき市の市場において検査のための処理を施される

Credit…Ko Sasaki for The New York Times

専門家の一部と、そして現地に住む人々は、そのようなTEPCOの言葉を信用することは難しいと言っています。

「日本政府とTEPCOは事実を隠していると思います。あの水は、やはり、汚染されているのでしょう。」と、いわき市の市議会議員であるサトウ・カズヨシさんは言います。

「来年は東京オリンピックがありますからね。安倍晋三首相は、すべてが“アンダー・コントロール”だ、というイメージを提示したいのでしょう」と、サトウ市議は語ります。彼が想起しているのは、東京が2020年のオリンピック大会のホスト国となった時に日本の指導者がスピーチで語った言葉でした。

情報を一般に周知させることは簡単ではありません。このことを電力会社は認めています。汚染水の処理についての情報は「分かり易い仕方で提示されてきませんでした」と、TEPCO広報のタカノリ・リュウノスケさんは言います。

福島第一廃炉推進カンパニーの事務局長であるマツモト・ジュンイチ氏は、排出するには安全基準を超えてしまっている汚染水について、「それがタンクの中に納まっている限り、何か問題になるとは考えなかったのです」と言いました。

ニイツマさんにとって、漁業は単なる生活のための生業ではありません。それは彼にとって、娘を喪った悲しみに耐えるための大切な仕事なのです。ニイツマさんは言います。「TEPCOと政府の両方が、海をきれいにするべきだと思う」と。

「政府とTEPCOには、現実をしっかり見て、情報を十分に開示してほしい」とニイツマさんは言います。今彼は、彼の2トンの漁船を、一週間に三回しか海に出せていないのです。

ニイツマさんのお連れ合い様は、いつも桟橋で夫を待ちます。最近の朝も、彼女が網を漁船から引き出すと、動き回るタコや跳ね回る数匹のホウボウをバケツの中に放り込み、そのバケツをトラックの荷台に乗せて、市場の倉庫へと運びました。

“Nuclear policy is central government policy,” said Yukiei Matsumoto, the mayor of Nahara.「原子力政策は国策の中心に位置づけられています」と語るマツモト・ユキエイ楢葉町町長Credit…Ko Sasaki for The New York Times

福島にいる漁民の家族について、日本政府が関心を払ってきたとはとても思えないと、ニイツマさんは言います。「汚染水を排出することについて、政府関係者が話し合っていますでしょう。そのこと自体が、つまり、私たちのことを考えていないということなんです」と彼女は言うのです。

「排出される汚染水が安全な水準に何で除染されているかどうか」という問題は「程度問題」なのだと、科学者は言います。

もし汚染水が処理され、低レベルのトリチウムだけが残された状態になったとするならば、太平洋に放出することが「コストと安全性から言って最善の解決策」であるだろう、と九州大学で原子力工学の教授を務めるイデミツ・カズヤ氏は言います。

イデミツ氏はさらに加えてこう言いました。「稼働中の世界中の原発施設においてトリチウム汚染水は海洋へと排出されています」と。

一部の科学者は、福島の汚染水が安全な水準まで処理されたのかどうか確かめるためには証拠が示されなければならないと言っています。

「まず人工放射性核種を除去した後の数値を確かめたいと思います。」と、マサチューセッツ州にあるウッズ・ホール海洋研究所で海洋化学と地球化学の上級科学者を務めているケン・ブッセラー氏は言います。「それからなのです。その処理された汚染水が放出されるべきなのかを巡る議論を検討し、そして、その結果がどうなるのかを検討するのは、本当に、それからなのです。」

Fish being prepared for auction in Iwaki.

市場でのセリを待ついわきの魚

Credit…Ko Sasaki for The New York Times

政府担当者は、この汚染水について、科学的に確認されない程度にしか問題はないのだと主張します。

「汚染水が太平洋に放出されると、水産物の価格が下がるかもしれません。あるいは、消費者が購入したくなくなるかもしれない」と、経済産業省で廃炉と汚染水処理を担当しているオクダ・シュウジ氏は言います。「それで、処理された汚染水が危険であるという科学的根拠はないのですが、その海洋放出について、私たちは心配をしているのです。」

2011年の原子力災害の後、現在でもまだ20か国以上で、日本の海産物と農作物の輸入制限を行っています。今年のはじめ、EUはその規制を一部撤廃しました。

福島の海産物は、震災前の15パーセントだけが市場に出ています。そのひと網毎に、サンプリングがされて、福島県庁と漁協によってスクリーニング検査が行われています。

漁協によると、珍しい種類のガンギエイを除くすべての魚種について、日本政府は最近、販売を禁止していないそうです。

漁協の支所長であるサワダ・タダアキ氏は「もし汚染水が排出されたら、政府が請け負う安全性について、市場関係者はおよそ信じなくなるだろう」と言いました。

Mr. Niitsuma on his boat.Credit…Ko Sasaki for The New York Times

ニイツマさんの漁船

「ほとんどの人は、放射能について、細かいことまで十分に理解しないままで過ごすことができます」とサワダさんは言います。「みんなこう言うのです。『だって、どうせ十分に分からないんだもの。福島の魚は買わないよ』と」。

福島県内では、数千人がもう戻ることができない避難生活を送っています。港に戻れた人びとは、いつまでも消えない疑いを胸に抱いています。

「頭の隅で、いつも迷うんです。ここは安全なのかどうかって」と65歳になるナガヤマ・ケイコさんは言いました。彼女の目は楢葉町にある海産物保冷庫を見つめていました。楢葉町は福島原発事故現場から12マイル(約20Km)圏内にあります。

日本政府は非難指示を2015年に解除しました。いわき産のカレイやヒラメ、そしてサンマは店頭に並ぶようになりました。しかし、ナガヤマさんは、いわきよりはるかに北に位置している北海道産のものを選びました。

楢葉町のマツモト・ユキエイ町長は、原発から汚染水を放出することについて意見を求められた際、答えることを拒否しました。

「原子力行政は国策の中心にあるものです」とマツモト町長は言います。「汚染水はそちらの管轄でしょう。」

日本政府は福島にあるいくつかの町の人々に帰還するように強く促しています。楢葉町はそうした町のひとつです。

そうした中で、3,877人だけが帰還しました。それは元の人口の半分程度です。東京の政府は新しい学校や新しいショッピングセンター、そして新しい運動場を整備するために40億円(3,700万米ドル)を助成しました。

先日の午後、ほんの少しの人々がジムを使用していました。25mのプールがその総合運動場に整備されていましたが、泳いでいたのはたった一人でした。

地元のアーティストであるカナムラ・ユカリさんは壁や窓に絵画を描くために雇われていました。彼女の夫であるユウキさんと二人の幼い子供たちだけが、広いプレイルームにいた、ただ一つの家族でした。

ナカムラさんは、福島産とされた鮮魚のラベルを見ると躊躇すると言います。「この魚を拒否することに、私の心は痛みます。この魚を人に勧めることができません。そのことに、心が痛むのです」と彼女は言い、涙を流しました。「漁師さんたちがこれを獲ってきてくれました。その人たちを傷つけたくはない。でも。とても複雑な思いがします。」

筆者であるモトコ・リッチはニューヨークタイムズ日本支局の責任者である。高騰時の不動産、恐慌時の経済、書籍、教育等、広い分野をカバーしている。