By Robert Jay Lifton, Naomi Oreskes, 2019年8月20日
(『ボストン・グローブ』と『核化学時報』からの再掲)
翻訳 神学博士 川上直哉
グリーンピースが世界銀行へ派遣したコメンテーターたちは、「気候変動は私たちの惑星の文明と生命を脅かす緊急事態であるか?」という質問に「そうだ」と答えています。気候変動に対して、どんな解決策が採られるかはわかりません。しかしその解決策を講ずる際には必ず、「化石燃料の段階的な廃止による温暖化ガスの制御」を実現して「代替的エネルギーへの転換」を実現し、そして同時に「人類という種が地球上で活動するために必要とされるエネルギーを供給し続けること」が実現されなければなりません。
この冷厳な現実を直視した結果、著名な人々の中から、原子力エネルギーを再び採用しようと考える人が出てきました。その人たちは、原子力エネルギーを「きれいで、効率的で、経済的で、安全である」と確言しています。しかし実際には、これらのどれも真実ではありません。原子力エネルギーは高価であり、私たちの心身への脅威となり、健康に重大な危険をもたらすのです。たとえば、米国エネルギー情報局によると、平均的な原子力発電コストは「1メガワット時あたり約100ドル」とされています。これを、他の発電方法と比較してみましょう。太陽光発電では「1メガワット時あたり50ドル」です。陸上風力発電では「1メガワット時あたり30ドルから40ドル」なのです。金融グループのラザードは最近次のように発表しました。「再生可能エネルギーのコストは“従来の発電(つまり化石燃料)”の限界コスト以下である」。これはつまり、再生可能エネルギーのコストは原子力よりもはるかに低い、ということなのです。
「理論的」には、これらの高コストと長い建設時間は削減できるとされます。しかし、半世紀以上かけて検証してみたところ、その「理論」は完全に論駁されてしまいました。他のほとんどすべての技術とは異なって、原子力のコストは、時間の経過と共に上昇したのです。原発の支持者でさえ、今や「自由市場環境下では原発の市場競争力はまったくない」ことを理解しています。原発を批判的に見ている人たちに至っては「原子力産業は“負の学習曲線”をたどっている」とまで指摘しているのです。OECDの原子力機関(NEA)と国際エネルギー機関(INEA)の両方が、次のように結論を出しました。つまり、「原子力が“低炭素のベースロード電源であることが実証されている”としても、気候とエネルギーの絡まりあった諸問題への回答として原子力を活用することは簡単ではない。コスト・安全性・核廃棄物処理についての深刻な懸念が存在しているからだ。産業界側はその懸念に対処する必要にせまられることだろう。」という結論を公にしたのでした。
更に、無視できないより深い問題があります。放射能の恐怖と、それがもたらす現実と向き合わなければならないという問題です。これは「目に見えない汚染」と呼ばれる問題です。この「見えない汚染」という言葉で、ある種の毒物が体内にたまっているということが意味されています。原子力災害の影響を受けていないように思われる人にも、どんな時でも、人はこの「見えない汚染」に苦しめられていきます。この「見えない汚染」の恐怖は、非合理なものではありません。というのは、放射線の影響は時間をおいて現れるのですから。さらに、壊滅的な核事故のことを考えなければなりません。それはまれにしか起こらないものです。しかしそれは、ひとたび起これば、上述の物理的および心理的結果を大規模にもたらすことになるのです。完璧な技術システムはありません。そして原子力関連の技術が持つ脆弱性は特別に大きいのです。設計を改善しても、致命的なメルトダウンの可能性を排除することはできません。こうした危機は、天災によっても生じ得ます。地震、火山、津波などの地球物理学的出来事(福島の事故を引き起こしたものなど)があり得るのです。技術的な錯誤や、どうしても起こる人為的ミスから大事故が引き起こされることもあります。気候変動それ自体が、原子力と折り合いが悪いものです。たとえば深刻な干ばつが起きていますが、そのような気候変動によって原発周辺の水温が非常に高くなれば、原発にとって決定的に重要な冷却機能が維持できなくなり、原子炉のシャットダウンに至ることでしょう。
原子力エネルギーの支持者は、福島とチェルノブイリの壊滅的な事故について、いつも常に過小評価しています。原子力エネルギーの支持者は、これら2つの災害で即死した人数が比較的少なく記録されていることを指摘します。それその通りなのです。しかし、そこから医学的に予測される数値については、まったく適切に考慮されていないのです。災害の混乱があり、専門家による極端に誤った操作がありましたので、二つの原子力過酷事故から予測される様々な推定値に、大きな不均衡が生じてしまいました。しかしそれでも、チェルノブイリ関連のプロジェクトによって得られた情報に基づくならば、数万から50万人にも及ぶ将来の癌死が予測されたのでした。
チェルノブイリと福島の研究では「目に見えない汚染」による恐怖が心の自由を奪うということも明らかになりました。この恐怖は広島と長崎を飲み込み、福島の人々の経験と被爆都市の人々の経験とを、痛ましくも接続してしまいました。身体的また心理的に安定しているとは、とても言いがたい。それが福島の人々の現状です。同じ恐怖がチェルノブイリを苦しめています。チェルノブイリでは、多くの人々が強制的に移動させられました。チェルノブイリ周辺の地域は今も、放射能によりその全体が汚染され、住むことができないままなのです。
実際の放射線障害と、放射能が引き起こす不安な予感の組み合わせ――つまりそれが「目に見えない汚染」の恐怖です。それは原子力技術が使用されている場所ではどこでも起こるのです。原子爆弾や大事故の現場だけでなく、ワシントン州ハンフォードでも起こります。そこには長崎型原子爆弾の廃棄物が保管されているのですから。コロラド州ロッキーフラットでも起こります。そこでは数十年にわたって核兵器製造工場があったのですから。ネバダ州その他の核実験場所でも起こります。核実験に伴い、そこで兵士たちが被ばくしたのですから。
原子炉はまた、核廃棄物の問題を引き起こします。半世紀にも及ぶ科学的および工学的努力にもかかわらず、適切な解決策が見つからなかったのです。原子炉がもう維持できないと判断され、核施設が閉鎖された、その後でも、そこに蓄積された廃棄物は危険なままであり、実際のところ、不滅なのです。プリマスのピルグリム原子炉でも、最近同様のことが明らかにされました。バーモントヤンキーでも、経済的な理由で核施設が閉鎖されたのですが、その後に同じ問題が残されました。1982年に放射性廃棄物政策法が施行され、米国政府は全核廃棄物の恒久的な貯蔵所を開発しなければならなくなりました。しかしそれから40年近くたった今でも、まだその貯蔵庫は不足したままなのです。
最後に、最も重大な危険性があります。原子炉から取り出されるプルトニウムと濃縮ウランは、核兵器製造のためにも使用可能なものとなります。ウランを商業用原子炉用に濃縮するために必要とされる技術は、そのまま、ウランを核兵器用に濃縮する技術へと、簡単に移転できるのです。商業用のウラン原子炉が作動すると、燃料の核分裂によりプルトニウムが生成され、最終的に高レベル放射性廃棄物が生み出されます。原子力が大規模に使用されるとき、常にそこには、兵器化への可能性が開かれるのです。当然ながら、原子炉はテロリストにとって潜在的な標的になります。それは潜在的兵器でもあるのですから。
現在450以上の原子炉が世界中にあります。緊急事態に対処する技術をもって原子力を考えてみましょう。そうすると、核危険地帯の地球規模の連鎖がそこに見えてきます。その危険性は、惑星規模での消滅のリスクを秘めたレベルのものです。そうしたことを考えるとき、原子力開発への恐れを持つことは、実に合理的なものとなります。不合理なのはむしろ、こうした懸念を締め出すことです。実に「半世紀以上の経験を経て“第4世代”の原子力がすべてを変える」と主張することこそ、不合理なのです。
原子力の支持者は、しばしば核エネルギーを、炭素を多く含む石炭エネルギーと比較します。しかし、石炭は問題ではありません。すでに世界の舞台から、石炭は脱落しつつあるからです。適切な比較をするとすれば、それは原子力エネルギーと再生可能エネルギーの間で検討されるべきです。再生可能エネルギーは、経済革命とエネルギー革命の一部となっています。ほとんどの専門家が予測したよりもはるかに迅速に、広範囲に、そして安価に、再生可能エネルギーは利用可能になりました。また、一般市民からも高く評価され受容されています。必要とされる規模で再生可能エネルギーが使用されるためには、エネルギー貯蔵・グリッド統合・家電のスマート化・電気自動車用充電インフラの整備に改善が加えられなければなりません。今、全面的な国民的努力が求められています。第二次世界大戦のときのような規模の努力です。あるいは皮肉なことに、原爆製造の時のような国家規模での努力です。再生可能エネルギーがすべての領域を覆い、「アメリカン・ウェイ・オブ・ライフ」を統合するところまで、努力を続けなければなりません。ガスと原子力は、そのために過渡的な役割を果たすでしょう。しかし、私たちの心身に永続的に影響してその機能を低下させ、その深刻な脅威となる、そんな技術のために私たちの惑星の将来を賭けることは、実際的ではありません。
とりわけ、私たちは「核の神秘」から自分自身を解放する必要があります。「核の神秘」とは、放射線が纏う魔法のオーラで、マリー・キュリーの時代から私たちを魅了し続けてきました。「平和のための原子力」という言葉が示すビジョンを、疑ってかからなければなりません。そのビジョンは、核兵器を普通のものと思わせる詐術にいつも伴ってきたものです。究極の破壊のために設計された技術が、究極の生活向上のための手段に一変する――そんな誤った希望が流布しています。私たちはそこから自らを引きはがさなければならないのです。