7年後のフクシマ――終わらない課題

親愛なるみなさま

今日は3月11日です。私たちはフクシマ核事故の7年を覚え振り返る日を迎えています。

三つの破損した格納容器から炉心を次取り去るために、これから先、最短でも40年の年月がかかると、日本政府が認めています。このフクシマの核危機は、人類と環境に影響を与え、その安全を脅かすことでしょう。これから続く長い年月について、私たちは憂慮を覚えています。放射能を帯びた風と汚染された水が北アメリカに到着し続ける状況は、これから50年は続くだろうと専門家は心配しています。

中東と中国ではこれから更に原発を作ろうとしています。それが気候変動への対応として中心的な役割を担うと、多くの人々が信じているのです。しかし考えなければなりません。原子力が推進される中で、どれほどのリスクを私たちは生み出してゆくのでしょうか。

核の災害は自然災害によるものだけではありません。欧州でも、中東でも、どこでも、テロリストによる攻撃やサイバー攻撃が原発施設に加えられるかもしれないのです。例えばフランスには18の原発施設群がありますが、その一つででもそうした事態が起こったら、どうなるのでしょうか。そうなったら、都市であれ農村部であれ、西欧の広大な範囲が、何年も人の住めない場所になることでしょう。

政財界および宗教の指導者、科学者と大学、そしてシエラ・クラブのような環境団体は、それぞれが持つ地球規模の視野をもって、目の前にあるこの特別な問題・福島の問題を、見詰めるべきだと思います。

以上を踏まえて、以下に二つの論文をご紹介します。この二つの論文は核事故の本質を衝いた議論を展開しているものなのです。

松村昭雄

 

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世界の海の三分の一以上を汚染しているフクシマ(そしてさらに悪化する事態)

(『アウェアネス・アクト』誌)

フクシマで起こったメルトダウンという原子力事故――そのような災害が世界に与える影響について、ほとんどの人が理解をしていない。このような災害が起こると、メディアはすべて機能不全となり、すぐに情報は遮断されてしまう。そうしてもはや誰も、そのことについて再び考えることができなくなってしまう。

しかし、事実は事実だ。たとえ誰もそれについて語る人がいなくなったとしても、それで問題が過ぎ去ったわけではない。まったくその反対なのだ。フクシマの災害は今まさに世界に臨んでいる。実に地球の三分の一がフクシマの核災害から漏れ出たものによって汚染されていると考えられているのだ。

損傷した炉心から放出された放射性物質の80%以上が、最終的には太平洋にたどり着く。それの量はチェルノブイリやスリーマイル島の事故とは比べ物にならないものとなる。その中のほんの少量だけが海底に沈み、残りは黒潮に乗って漂流する。そして北太平洋にある莫大な量の海水と混ざりあい、海へと広がってゆくことになる。

これらの放射性物質は、二種類のセシウムを中心として確認されている。それは今のところ、東大西洋でだけ見つかり始めている。例えば2015年に、ブリティッシュ・コロンビアとカルフォルニアの近くの海岸線で、私たちはフクシマ由来の放射能汚染の兆候を発見した。確かにその量は少なかった。しかしその量の寡少をもって放射性物質の危険を過小評価することはできない。すべて微量の集積が被ばくの累積へとつながっていくのだ。

私たちは何をすべきなのだろうか。まず、「フクシマはアンダーコントロールだ」ということは間違いである。海洋中の放射性物質を見る限り、汚染水の漏洩は続いているのだから。福島第一原発から出る汚染水によって、陸地に設置された1000器以上のタンクはいっぱいになりかけている。毎日300トンもの水がくみ上げられ、壊滅した格納容器を冷却するために使われている。

この発電所を管理する責任は東京電力株式会社(TEPCO)にある。TEPCOはろ過装置を開発し、非常に危険な放射性同位体であるストロンチウムとセシウムを除去している。しかしなお、タンクの中の水にはトリチウムが残り、二つの中性子を伴った水素の放射性同位体が残されている。トリチウムは核反応に伴って生じる副産物の主なもので、それを水から取り除くことは技術的にも経済的にとても困難なものである。

現在、日本の原子力規制委員会は、80万トンの汚染水を太平洋に放出したいと言い、それは安全で合理的なことなのだと言って、疑いの目を持ち続けている世界を説得しようとキャンペーンを張り始めている。

私はここで断言しておきたい。これ以上の汚染水の放出について、IAEAとTEPCOは環境への影響を考慮する必要がある。生物全体がその影響を蒙り、その地域一帯が長期間影響を蒙り、そして結局、地球上規模の人間の暮らしに影響が出る。そのことを充分考慮する必要がある、ということを、私は強調したいと思う。

https://youtu.be/cCB_U5hLBoc

https://youtu.be/1jEy2wiV0aM

 

7年間という時間:フクシマの被ばく水夫たちは法廷に日常を探す

『ネイション』誌(グレッグ・レヴァイン)

全長300メートル超・重さ10万トン超の空母ロナルド・レーガンは、米国第七艦隊の超大型空母であって、いわゆる高速艇のようには動けない。しかし2011年3月のある日、ロナルド・レーガンをはじめとした「ミニッツ級」の艦隊は「尻を叩かれたように」して出動したと、三等級下士官のインゼイ・クーパーは語った。

しかしその後、空母ロナルド・レーガンは、まだその目標に到達していないのに、仙台湾のすぐそばまで来たところで、きわめて低速での航行を始めた。

「海を見ることなんか、だれにもできなかった」とクーパーは私に言った。「そこに見えたのは木と木材と船だった。そこにあまりに大量のがれきがあったものだから、艦は動きを止めざるを得なかったのさ。」

20年以上の軍隊経験を持つ上級下士官アンゲル・トレスは私にこう言った「あんな光景は見たことがない。」トレスは41歳。空母レーガンの航路を採っていた。その周囲は家、トラック、その他浮遊物で埋め尽くされ、それはまるで「障害物競走のようだった」という。一つ航路を採り間違えれば、「一発で艦が引き裂かれかねない」という状況だった。

空母レーガンと、その周辺にいた20隻以上の米海軍艦隊は「トモダチ作戦」に従事していた。それは東北の地震と津波の直後に始められた、9千万ドルの規模で展開した被災地救援作戦であり、人道的動員であった。水夫たちの目に、その破壊の状況はまさに恐怖そのものとして映った。むしり取られたような肉体が水に浮かんで見えた。衣服を着たままの生存者がほとんど凍りかけた水の中に眠ったようにしていた。残骸の列が延々と続き、それは終わりないもののように見えた。――その現場に向き合い、最初は、すべて訓練通りに救助活動が展開し始めた。

「通常の警戒態勢を取りました」とクーパーは言った。「訓練された通りに動きました。そういう体制に入ったということです。」

隊員たちはしかし、すぐに軌道修正をかけられることになる。

「本当に突然のことでした。こんなに大きな雲が私たちを襲ってきたのです」と、トレスは私に語った。「それは白煙ではなかったのです。一見すると蒸気漏れなのかと思うかもしれませんが。」彼はそう説明した。それは石油が燃えるときの黒煙でもなかった。彼は1991年に従軍した際、クウェートでそうした黒煙を見ていたのだ。「こんな煙は、本当に、私の見たことのないものでした。」

クーパーはその時、隊の仲間から離れてフライトデッキに立っていた。次の離陸のための点検をしようとしていたのだ。彼女はその時のことを、寒くて雪が降ってきたと記憶している。そう彼女が感じた時、どこからともなく暖かい空気の塊が吹き込んできたことを感じた。「ほとんどその直後なのです」と彼女は私に語った。「あ、鼻血が出たかな、と私は感じたのでした。」

しかし鼻血は出ていなかった。口の中にも血は出ていなかった。それでも、クーパーは確かに血の味を感じていた。「それはなんだか、アルミフォイルをかじったような感じだったのです。」と彼女は私に語った。

現地時間2011年3月11日14時46分、マグニチュード9.1の地震が発生し、65キロ離れた東日本にある牡鹿半島を襲った。20世紀以来4番目に大きな振動が本州に壊滅的な破壊をもたらした。福島第一原子力発電所は震源に近い太平洋岸に位置していた。地震によってその冷却システムは損傷し、全電力が消滅した。電力は稼働中の炉心と高レベルの放射脳を帯びた使用済み核燃料を冷却するための水の」循環に必要なものだった。

福島第一原子力発電所には、緊急時に備えて、非常用のディーゼル発電機が何台も準備してあった。しかし自身発生から一時間もしないうちに、地震によって引き起こされた津波の高さは13メートルを超え、防潮堤を破壊し、発電機を含むほとんどの機械類を水浸しにしてしまった。水に浸かってしまった発電機のいくつかは地表よりも低い位置に設置されていた。その設置はジェネラル・エレクトリック社のプラント設計者によって定められたものであった。

冷却装置を失うと、炉心の温度は上昇を始める。溜まってしまった水は沸騰し始め、ジルコニウムに覆われたウラン燃料棒が大気に触れるようになり、超高温の科学反応が水の元素を分断する。福島第一原子力発電所の所有者は東京電力株式会社(TEPCO)である。その数百人に及ぶ職員は勇敢にも冷却水の循環を取り戻そうと奮闘した。あるいは、その時すでに汚染された幾つもの格納容器は圧力が高まっていたので、最低でもその減圧を試みていた。しかし、すでに半世紀を経てしまった古い原発である。そこには既に死が埋め込まれていた。それはもう何十年もの間予想され続けた通りの結果でもあった。圧力は建物内で高まり続けた。二日の間、汚染された建物の爆発の時が迫っていった。三つの原子炉建屋で水素爆発が起こり、高放射性ガスの柱が立ち上り、高放射性デブリが空気中に高く舞い上がった。その汚染デブリは拡散し、日本は今もなおその除去に努めている。

しかしなお、この破壊と騒乱はにもかかわらず、原始力政策の推進者たちは、フクシマをしてサクセスストーリーに見せかけようとしている。「結局、これだけの自然災害に遭遇したのにも関わらず」と、原子力の信奉者は言うのだ。「誰も死んでいないではないか」と。

しかし第七艦隊の乗組員たちは、この言葉を拒否するだろう。その救助活動から7年が経った。9人が死んだ、それも福島第一原子力発電所で起こった災害によって、9人が死んだ。その任は全員アメリカ人だった――そう、この乗組員たちはあなたに語っているのだ。

この続きは、2018年3月に発表します。