チュニジア ノーベル平和賞―政治的価値としての対話

難民危機によって、国の地政学的・文化的政策とグローバル経済政策は作り変えられ、欧州連合(EU)の基本原理は試練を受けることになるでしょう。シリアの危機は難民問題を悪化させているだけでなく、シリアや他の中東諸国で革命の引き金となる可能性もあります。このモザイク様に組み合わさった複雑な問題についてともに考えていきましょう。フランスは、シリア、北アフリカ、中東と歴史的なつながりがあり、概して地域の問題に精通しています。私は、親しい友人であるバイロン・ジャニス** とマリア・クーパー・ジャニス夫妻から「ブリッジ・イニシアティブ・インターナショナル(Bridge Initiative International )」の創設者Patrice Barratを紹介されるという幸運に恵まれました。

Patriceは長年にわたって、文化とイデオロギーの壁を越えて架け橋を築くというコンセプトのもと、草の根レベルで活動を行ってきました。近年は「アラブの春」の源であるチュニジアに在住し、自らの使命を果たしながら、今年ノーベル平和賞を受賞した「チュニジア国民対話カルテット」の活動を目の当たりにしてきました。その高潔な働きをぜひご紹介したいと思います。

**バイロン・ジャニスは世界的に有名なコンサート・ピアニスト。グローバル・フォーラムのテーマソング『One World 』を作曲。(作詞はアカデミー賞を4回受賞したサミー・カーン。歌はジョン・デンバー。)妻マリアの父はハリウッド俳優の故ゲイリー・クーパー

— 松村昭雄

チュニジア ノーベル平和賞

政治的価値としての対話

 

「ブリッジ・イニシアティブ・インターナショナル(Bridge Initiative International)」の創設者ならびに事務局長
「ブリッジ・イニシアティブ・インターナショナル(Bridge Initiative International)」の創設者ならびに事務局長

一見あまりに素朴な光景であった。彼らはすぐそこの壇上にいた。1週間前の2015年10月9日、オスロからの知らせ以来はじめて勢揃いした。2013年夏の団結がノーベル平和賞を受賞したという知らせだった。

パリのアラブ世界研究所。私たちの目の前でカルテットはその成り立ちと将来構想について、そしてチュニジア国民の運命について語った。カルテットにとっては、チュニジアの人々こそが真の受賞者であるという気持ちだった。それは偽りではない。事実カルテットを主導するのは市民社会であり、今日まで標榜し続けてきた国民対話は真摯な取り組みによって本物だと認められている。

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なぜ私にこんな話ができるのかというと、2012年以来ほぼ毎月チュニジアで、NGO「ブリッジ・イニシアティブ・インターナショナル」として若者と政府との間に調停プロセスを築く活動をしていたからだ。また、私はジャーナリストとして1980年代からチュニジアを「報道」してきた。1984年に国家を揺るがせ、革命にまで発展しかかった「パン暴動」も取り扱った。

革命は起こる。ただし、それは23年後のベンアリ政権時代であった。1987年、ベン・アリはハビブ・ブルギバを打倒し政権に就いた。ブルギバは、フランス植民地からの開放を果たした「国民の父」として、さらにアラブ世界では稀な女性に権利を与えた近代主義者として広く知られている。2011年1月14日当日のほぼ間際まで、ベン・アリの腐敗した独裁政権は西側諸国(米と欧州)から支援を受けていた。西側は、ベン・アリを経済面で、また対イスラム過激派への戦略面で協力者と見なしていた。しかし、チュニジアの「アラブの春」が若者を中心として各地に波及し、その波は地政学をしのいだ。そして2011年、「ジャスミン革命」が勝利する。

ところが2年後の2013年、チュニジアは内戦の危機にあった。二つの世俗派政党「エタカトル」と「共和国のための会議」が連合(通称「トロイカ体制」)、引き続き統治を行っていたのは「穏健派」のイスラム系政党「エンナハダ」であったが、過激派サラフィー主義者たちへの対応が甘かった。チュニジアの若者たち数百人がイラクやシリア、リビアで過激派グループに加わるのをむざむざと許してしまったのだ。野党指導者の暗殺はピークに達し、経済と社会は炎上の危機に陥っていた。そんなときである。マヌーバ大学とジェンドゥーバ大学の学部長二人が受け身の態度を捨て去る決断をした。まず、チュニジア労働総連盟(UGTT)の代表に声をかけた。UGTTの代表フセン・アバシは、続いて彼の好敵手に呼びかけた。産業商業手工業連合(UTICA)の女性会長ウイデッド・ブシャマウイである。国家のために協調することで合意した二人は人権擁護連盟の代表アブデッサタル・ベンムーサを、さらに全国弁護士会の会長ファデル・マフードを引き入れた。

このようにして4団体―カルテット―は計画を策定した。優先すべきは憲法制定だった。政治的空白状態を避けるため早急に新しい選挙過程を開始し、長々と話し合われてきた新共和国憲法の採択を急がなければならない。独裁体制への回帰を阻止し、非宗教的国民国家を確かなものにするための憲法が必要だった。カルテットは、エンナハダを含めた全政党に、政界のエリートたちによるものではなく、市民社会主導型の計画を承認させようと固く決意していた。

教訓

ノーベル賞受賞から学んだこと。それは、力強い市民社会における知的かつ包括的な対話の実現が平和賞を獲得した、ということだ。

2015年10月15日、パリで祝賀会が催された日の朝のことだ。著明なアルジェリア人作家カメル・ダウドのコラムを読んで純粋な喜びを感じた。「『チュニジア人』とは国民を指しているのではなく、私たちみんなのことだ」。仏の元文化大臣ジャック・ラングの言葉に酔いしれた。「これは象徴だ。象徴の光は伝播する。アラブ世界の至るところに。全世界の至るところに」。祝賀会がまさに開かれたのを目にして満足感に浸った。というのもムハーディン・シェルビブが祝賀会の開催を思いついたのは当日のわずか4日前のことだったからだ。シェルビブは熱心なチュニジア人活動家として高い評価を得ている。60歳代で普段はパリの9区にある小さなホテルのフロント係として働く。

なぜチュニジアでは改革が成功したのか?なぜチュニジアでは違う結果となったのか?リビアやイラク、シリアのような大量殺りくもなく、エジプトのような厳しい抑圧もなしに。他のアラブ(あるいは非アラブ)諸国と違うのはなぜか?

憲法体制と市民社会の関係を担当する大臣カメル・ジェンドゥビが見解を述べている。対話は数世紀におよぶチュニジア文化の伝統であり、対話があったからこそ植民地時代に宗主国フランスから持ち込まれた労働組合主義は成功した。対話には真剣に取り組む。醜い独裁体制や内戦の危機から国政を救ってくれたのは対話である。

信じていただけるだろうか。2014年秋の大統領・議会選挙の前日のできごとを。スイスを拠点とするNGO「人道的対話センター (Center for Humanitarian Dialogue) 」で働く友人オメヤ・セディクは23党すべての政党を説得して行動憲章と相互尊重の協約に連署させた。しかも、それだけではない。党首たちはすすんで ビデオクリップに出演し、署名に満足していると言ったのだ。

警告

カメル・ジェンドゥビも今回の受賞者たちも、自分たちの仕事が警告つきであることを認めている。

チュニジアの若者は高失業率に直面している。無職の大学院卒業者の若者のための組合まである。社会福祉はない。チュニジアの成功のもとである対話に若者が参加する余地はない。若者がいなければ2011年の革命はなかっただろう。だれもが認める事実だ。カルテットが結成されることもなく、ベン・アリが相変わらず政権に就いていたかもしれない。若者たちの勇敢な行動はきちんとした場で称えられるべきだ。チュニジアの春が希望の光として輝き続けていると確信させてくれるのは若者たちの声である。若者たちの声と権力の座に就く者たちとが積極的に関わらなければ繁栄は実現しないだろう。

チュニジア政府が平和賞受賞を刺激剤として若者との対話へと発展させるか、あるいは程なくして路上で新たな怒りが爆発するか、どちらだろうか。

Patrice Barrat

 「ブリッジ・イニシアティブ・インターナショナル(Bridge Initiative International)」 の創設者ならびに事務局長

 

(日本語訳 野村初美)

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