松村昭雄
(日本語訳:川上直哉 神学博士)
福島原発事故を契機に、私は重要なことに気づかされました。私たちはどうやら、「原爆による放射能」と「原発事故による放射能」との関係について、十分に理解していなかったようです。実は、人間の生命や人生について真面目に考えるなら、実はこの両者は、ほとんど同じリスク要因となるものだったのです。国家による核攻撃にさらされるかもしれない、という危険を、私たちはずっと抱えてきました。そして今、私たちは新たに原発の脅威を感じています。人的なミスと、そして地震・津波・火山などの自然災害と、その二つが原発に及ぼす脅威のことです。あるいはここで、何かもう一つ、カギとなるものを見落としているのではないか、と思うのです。つまり、原子力発電所に攻撃が加えられたら、いったいどうなるのでしょうか。結局、何が気がかりなのかといいますと、それはつまり、政情不安に悩む国でテロリストが原発を攻撃したらどうなるのか、ということなのです。
核兵器に反対を表明しながら、核エネルギーを支持している、というオピニオンリーダーにお会いしたことがあります。彼によると、核エネルギーは二酸化炭素削減に大きな貢献をするというのです。この方が唱える核兵器反対も、核エネルギー支持も、両方とも意味ある議論だと思います。しかし私は思うのです。この両方とも、長期にわたるリスクとその帰結についての視野に欠けているのではないか、と。
私は、スコット・ジョーンズ博士に助力を求めました。彼はNEAA(Nuclear Emergency Action Alliance核問題緊急同盟)のIAC(International Advisory Council=国際諮問会議)のメンバーです。彼に、原発と核兵器の関係を説明してほしいと思いました。彼はかつて海軍のキャリア官僚であり、核兵器に関する広範な経験を持っています。核兵器を運搬するパイロットとして高い評価を得、諜報部門での任務経験を持ち、官僚としては核兵器配備担当の任に就き、米国欧州作戦案における付帯文書「核による標的」を作成した人物でもあります。そうした経歴の後、彼は、クライボーン・ペル上院議員の特別補佐官となりました。なお、スコット・ジョーンズ博士には、以前、「Fading Memories and Lessons Learned(風化する記憶と学ぶべき教訓)」と題した記事を寄稿していただいたことがあります。
原子力発電所と核兵器との関係とは何か
スコット・ジョーンズ博士
原子力発電所と核兵器との関係とは何か。そう問われたならば、「母と子」という関係が、両者の関係だと答えます。もちろん、「母子」という言葉に込められている古典的な優しいイメージはわきに置いておいてください。科学者の間で、そして、原子力事業者の間で、このことはすでに所与の事実なのです。とはいえ、「核の平和利用」という商業的なスローガンが導入されて以来、この現実はあいまいなものとされてきました。それが一般の人々の間に急激にはっきり意識されるようになったのは、1983年1月のことです。それは、論文「原子力科学の小冊子」が発表されたことによるのです。そこには次のように書いてありました。
「ビジネスの力を核爆弾に結び付けること。このことの経済的利点を確認すればするほど、どうしても、いよいよ悲惨な結果に立ち至ることになる。1981年の終わりころ、米国政府は、商業用の原子炉にある核燃料を、新しい核弾頭のためのプルトニウムの原材料として使いまわすことを考え始めたのだ。そこに経済的な魅力があると衆目が一致するなら、それもあり得ることだろう。しかしそうだとしても、そこには膨大な政治的コストがかかることになる。そのことを、合衆国政府は考慮に入れたのだろうか。」
核エネルギーが生み出すものと、核兵器とは、基本的・根本的なところでつながっています。それは家族的な関係といえるでしょう。しかしながら、それは別の重要な関係性へとつながっています。
核兵器は、国家安全保障をめぐる政治的決断という強い意志を込めて生み出されるものです。合衆国が核兵器を開発し使用しました。その後、核兵器保有国のクラブが生まれました。その保有国たちは、核保有がその国に安全をもたらすこと、そして、この機会を逃せば核はもう持てなくなるだろうということを考えて、決断をして核保有に踏み切りました。そのとき、それはすべての潜在的な敵に対する抑止としての防衛的措置である、と主張されました。つまり、核兵器で攻撃されることへの抑止ということが語られたのです。
恐怖というのは、見事な肥料です。知恵をもって立派に立ちおおせる人であっても、恐怖にかられると、目に見える脅威が減らされるのか、あるいは激化するのか、とにかく判断してしまおうとしてしまうものです。判断することは、NEAAの任務ではありません。NEAAの任務は、緊急事態が進行中であるというときに、人々の手助けとなることです。
まず、確かなこととして言えることが一つあります。それは、原発がそれ自身、潜在的な標的となっている、ということです。そして、簡単には予測できないことが一つあります。それは、いったいだれが、あるいは何が、侵略者となるのか、ということです。
人間の世界においては、最近でも過去においても、敵というものはいつも、具体的な標的をもち、脅威として列挙できたものです。しかし今、世界には31の国々に450もの稼働中の原発があります。さらにもう少し未来に目を向ければ、16の国々が60の新しい原発を持つべく、建設を進めています。テロリストグループはそれらの中から一つを選べばいい。それだけで、大変な脅威が生じるかもしれないのです。テロリストはどこを狙うのでしょうか。標的は、攻撃への防御が最も手薄な場所を選んで決まるのです。
いまや標的とすべきものの数に不足はありません。そしてその数は増えているのです。テロ攻撃というものは、それが成功なのか不成功なのかについて、放射性物質の拡散量によって決まるものではありません。テロの成否は、おそらく、まず物質的なものではない何かによって決まってくることでしょう。
核エネルギーのネットワークは地球規模に広がっています。私たちはみな、精神的な逼迫状態にあるというべきシステムを共有しているのです。そのシステムは、核をめぐる事件が起こるたびに、キイキイと軋んでいます。世界の多くの場所で、事故や攻撃が起こるのか、起こらないのか。私たちはヒロシマ・ナガサキ・チェルノブイリそしてフクシマの記憶のレンズを通して見て、よく考えなければならないと思います。… Continue reading